第8話エミリア、泣き通して目が腫れる


「乗馬クラブ‥そうだったわね。でも他に用事が出来てしまったからまた今度にしましょう」


 その日の夕食時、それだけ言うとお母様はすぐ隣の席の客人と話をし始めた。


 そんな! 乗馬クラブに連れて行ってくれる約束はずっと前からしていたのに!


「でも! ずっと前からの約束です!」

「聞き分けの無い子ね。また今度連れて行くって言ってるでしょう」


 お母様は隣に座っている商談相手の客人に向き直って苦笑いした。「もうほんとにわがままで困りますわ」


「まあまだ小さな子供ですからな」その外国から来た客人は蔑むようにあたしを見た。


 悔しい! あたしが子供だからってバカにして! お母様も商談の事しか頭にないんだわ。もういいわ、お父様にお願いするんだから。


「お父様、今度の日曜なんです。お母様の代わりに乗馬クラブへ連れて行って下さい!」


 お父様は唐突に話を振られてびっくりしていたけど、すぐ困ったような顔をして言った。「その日は王宮に戦況を報告しに行かなければいけないのだよ、すまないねエミリア」


 なんてこと! お父様まで。お父様なら私の言う事を聞いてくれると思ったのに!


「もういい!」


 あたしはフォークを握りしめたまま椅子を蹴るようにして席を立った。そしてそのままダイニングホールを走って出て行った。


 自室のベッドに体を投げ出してあたしは大声で泣いた。お父様が一緒に乗馬クラブに行ってくれる保証なんてどこにもなかったのに、勝手に期待してた自分がバカみたいだった。そんな期待をしなければこんな風に悲しくなることも無かったのに。


 一通り泣いたら今度はお母様に腹が立って来た。どうして大人はすぐ約束を破るんだろう!


 ぎゅっと握りしめたままだったフォークで枕をブスブス刺しながら「お母様のバカ! 大人なんてみんな嘘つきだ!」と叫んでいるとドアが開いた。


 ルーカスだった。


 ゆっくり歩いてベッドまで来たルーカスはベッドの端に腰かけて言った。


「乗馬クラブ、残念でしたね」


「何しに来たの?! 同情なんてしてくれなくていいわよ。それともお客様の前であんな風に出て行って礼儀がなってないとか、お小言を言いに来たわけ?!」


 枕にフォークを付き立てたままであたしは乱暴に言い放った。


「どちらかと言えば同情でしょうか」


 ルーカスはあたしの手からフォークを取ろうとそっと手を掛けた。「危険ですからそれを渡してください」

「放っといて!」


 ルーカスの手を振り払おうとした時フォークが彼の右頬をかすめた。ルーカスの頬は切れ、血が滲み出て来た。


「あっ」あたしの手からフォークが落ちた。


 頬に手をやり、その手に着いた血を見たルーカスが笑いながら言った。「これで左右対称になって恰好がつきますね」


 どうして・・どうしてルーカスは怒らないの?! どうしていつもそんなにあたしに優しくするの・・。

 思わずあたしはルーカスに抱きついて言った。「ごめんなさい・・ごめんなさい」


 そしてそのままルーカスの腕の中でわんわんと泣いた。ルーカスは何も言わずずっとあたしの頭を撫でてくれていた。



 翌朝、あたしを起こしに来たアンが目を丸くして言った。「随分と目が腫れていますね。冷たいタオルを持ってきますからそこでお待ちになっていて下さい」


 アンは部屋から出て行ったが、入れ違いにルーカスが入って来た。


「おはようございます。やはり目が腫れてしまいましたね。冷たいタオルをお持ちしましたから目に当てましょう」


 ルーカスは何事も無かったかのようにいつもと変わりない。でも右頬には昨日の傷がはっきり残っていた。


「ルーカス、怒ってないの?」

「怒ってませんよ。昨日お嬢さまは謝って下さったではないですか。それに前より男前にしていただきましたからね」


 屈託なくルーカスは楽しそうな笑い声をあげた。ドキン! うっ! 胸が‥胸がどきどきする。どうしてなんだろう、昨日あんなに泣いたからかしら‥。


「少し横になって下さい。タオルがずり落ちてしまわない様に・・」


 あたしの肩をルーカスの大きな手がそっと触れた。ドキン! うっ! やっぱり胸が苦しいし、心臓の鼓動が早い。泣きすぎるのは体に良くないのね、気を付けなきゃ。


 目に冷たいタオルを乗せて、ベッドの上でじっと横になっているとアンが戻って来た。


「あらウォーデンさん、先にタオルを持ってきてくれたんですね」

「はい。ですがそろそろタオルがぬるくなっているでしょうから取り換えて差し上げて下さい」


 ルーカスは部屋を出て行ったようだ。


「あの執事見習いも少しは気が利くようでございますね」

「そ、そうね。それと朝食は部屋で食べたいわ」

「畏まりました。それでは朝食の用意をして参ります」


 朝食を食べながらあたしはぼんやりとさっきの事を考えていた。ルーカスの薄い緑色の瞳、肩に触れた大きな手。楽しそうに笑う優しい声。ドキン! うっ! や、やっぱりあたしはどこか悪いのかもしれない。


 




「お嬢様! お嬢様! エミリア様!」

「はっ。な、なに?」


「もう計算は終わりましたか?」

「あっ、まだだわ」


 そうだった、今は数学の授業中だった。ぼうっとしてて何も聞いてなかったわ。


「お嬢様、僕の授業がお嫌でしたらハッキリそうおっしゃって下さい。そりゃあ僕は公爵家の家庭教師になるにはまだ若すぎて実力も伴わないかもしれません。ですが僕はお嬢さまの為に最善を尽くして来たつもりです。それなのに僕が気に入らないからと言ってそんな風に無視されるなんて・・」


 家庭教師のマイケル・シーナ先生はいじけてずっとブツブツ言い続けている。


「僕にイタズラを仕掛けた事も数知れませんよね。でもこんな風に無視されるよりはずっとましです。もう僕は耐えられません!」


 シーナ先生は半べそをかきながらいきなり部屋を飛び出して行ってしまった。廊下の先で「あっ、すみません。僕もう辞めます」と謝る声がしたと思うと、すぐアンが姿を現した。


「シーナ先生が・・お嬢様、また何かやらかしたのですか?」アンは呆れた顔をしてあたしを見下ろしている。


「あたしは何もしてないわ! 先生が1人で勝手に泣き出して出て行ったのよ!」


 人聞きが悪いわね、全く! 


「ジェナに続いてシーナ先生まで辞めると言ってましたわ。優秀な人材を確保するのも大変なのですよ、いじめるのも大概になさって下さいませ」


 アンはあんな事を言うけどあたしはシーナ先生は嫌いじゃなかったわ。イタズラするとすっごくびっくりして飛び上がるし、怖い話をするとやめてくれって目に涙を浮かべて震えるから面白いんだもの。


 ま、いいわ。今日はもう勉強しなくて良さそうだから庭にでも出て遊ぼうっと。


 飛び出して行こうとしたあたしにアンが待ったをかけた。「お待ちください! お帽子を被らなくてはいけません! そばかすだらけのレディになってしまいますよ!」


 んもう、うるさいんだから。アンがあたしの頭に帽子をすっぽり被せているとエレンがやって来た。


「お嬢様に伝言をお伝えに参りました」



 

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