第16章 強化ガラスと脆弱音

夏季休暇もあと数日で終わりを告げる昼下がりの的場居室。

いつもは、映画やアニメを楽しむわけであるが、その日は違った。

オンライン会議用に購入したやたらと高いゲーミングヘッドホンをスマホに繋ぎ、

とある音楽を堪能する。

愛用のニュースアプリが告げた本学学生の快挙。

こう見えて、音楽好きな的場は、その耳で体感したいと考えたわけである。

幸い、その演奏は検索すれば容易に見ることが出来た。

的場は音楽に関しては、完全に鑑賞専門である。学生の時にギターに手を出したことがあるが、全くもって才能に恵まれず、挫折。電子音楽にも挑戦したが、長続きしなかった過去がある。

音羽のピアノ演奏は、素人の耳でもその演奏が素晴らしいということを理解させるほどのものであった。ついでに他の出場者の演奏を聞いてみたが、音羽の演奏が与えた感動がより強固なものになるだけであった。


「強化ガラスみたいだな」


ガラスみたい。という表現はよくあるだろう。それは、その表現の繊細さを全面的に押し出した比喩であり、繊細であるが故に、少し触れるだけで簡単に崩れてしまうという脆弱性も示唆している。そして、ガラスは透明な物質であることも相まり、透き通った印象を彷彿とさせるわけである。

しかし、扱う主なガラス器具は試験管やビーカーである理科教員に言わせてみれば、

『ガラス=脆い』という連想は片腹痛いこと、この上ないわけである。

しかし、大半の薬品をもってしても変性しない数少ない存在であることを鑑みると、「ガラスみたい」という比喩表現は、何をしても不変である『唯一無二』という意味合いも含んでいるのではないかとも考えられる。

普段、的場はこんなことばかり考えている暇人なのである。まさに、大学屈指の暇人教員の風格である。

的場が抱く音羽の演奏の印象としては、透明性があることは間違いないが、脆く繊細というわけではない。よって、世間一般に浸透している意味合いとしての『ガラス』という比喩は少々不適である。どちらかと言えば、容易には崩れない確かな強さを持つことに加え、それは、音羽琴美だから成り立つ演奏表現であると感じてならないわけである。

要は、他者がポイントだけ真似たとしても演奏として成り立たないといういうことである。

なるべくしてトップになったのだろうと確信をもって感じた音楽素人の的場であった。


「久々に良いものを聴かせてもらった」


今日は、何となくであるが良い日になる気がする。

的場の第6感は割と当たるのである。


トントン ガチャ


「ごめん、的場ちゃん。塩酸貸してくれる?うちの使い切っちゃって。」

的場の第6感は『割と』当たるのである。


19:00。的場は、ある人物に合うために大学近くの中堅病院の出入り口前にいた。

「お待たせ!ごめん、遅くなって。」

「俺も今来たところだから大丈夫。」

「じゃあ、行こっか。店は予約してあるからすぐに入れるよ。」

「何から何まで申し訳ない。」

「気にしないで」


百田 友樹(ももた ともき)。北央大学近くの中堅病院に勤務する病理医。

的場とは、大学時代の友人で必修科目やサークルが同じであった。2浪しているため年齢は的場より年上である。


病院からしばらく歩いたところにある居酒屋に入る。気の利くことに完全個室である。

「お腹すいてる?まずは、たくさん頼もう!この店、何食べても美味しいから!」

百田のお勧めをはじめ、注文を済ませる。

しばらくして、料理が到着する。次々に料理がテーブルを埋め、少々頼みすぎたことを二人で実感するのであった。

料理を食べながら、的場は本題を切り出す。

例の昏睡状態について医療現場では、どのように扱われているのか、また、的場の見立てでは、心理的・精神的な要因なのではないかということを百田に話す。


百田はしばらく考えた後、少し重そうに口を開く。

「あくまで、僕個人の意見だけど的場君の見立ては、大方正しいと思う。」

的場は意外な回答に少々驚く、自分の考えとは言え、オカルトが過ぎると感じていたからである。現役の医療従事者に肯定されるとは思わなかったのである。

百田は続けて言葉を重ねる。

「僕は、病理医だから患者さんと直接かかわることはほとんど無いんだ。でも、どれだけ調べても、身体に異常がないんだよ。つまり、眠ったまま目覚めないということを除けば健康体そのものってこと。もちろん例外はあるよ。糖尿病や精神病の受診歴があるとかね。でもそれは、珍しいことではないし、件の昏睡状態とは明らかに何の因果関係もない。」

医療に関しては、全く持って素人の的場であったが、例の昏睡状態が病気の類ではないこと、原因が分からないことは理解できた。

「原因は・・・不明?」

「そう、これが病理医としての僕の回答。これから、一個人としての回答をするね。」

百田が切り替えるように声のトーンを上げて話を続ける。

「でも、あくまで個人の見解だし、医療人としてグレーな内容だから内密にね。」

的場にしっかりと釘を刺し、百田は話を続ける。表情は笑顔であるが、目が笑っていない。その言葉に的場は、脅迫めいたものを感じた。

「さっき僕は、的場君の見解は大方正しいと言ったね?僕は、病理医として働く傍ら、心理相談の補助業務をしてるんだけど、相談内容の記録資料を読んでいた時に、昏睡状態の患者さんにはある共通点があるんだ。」

「共通点?」

的場は、この時点でツッコミどころ満載であったが、敢えて水は差さないことにした。

「そう、さっき僕は昏睡状態の患者さんは、健康体そのものだと言った。それは、あくまで病気の受信歴や診断がされていないといった医学的定義に基づく意味合いとして言ったに過ぎない。その記録資料には患者さんのご家族からの相談内容も含まれていて、その患者さんの多くは、心理カウンセリングを受けている割合が高かったんだ。そうでなかったとしても不登校歴や休職中などの状態に陥っている人の割合が明らかに高いんだ。僕が的場君の見解に大方同意なのもそれが理由。」

たしかに、本当に助けな必要な人に限って助けを求めるのが下手だったりする。学校現場に勤務していた的場は幾度となくその問題に直面してきた。

一見、話の筋は通っているように思える。だがそれは、誰しも多かれ少なかれ、大きかれ小さかれ抱える悩みである。的場は何処か腑に落ちないような気持の悪さを拭い切ることが出来ないでいた。

「どこか腑に落ちてないようだね。もちろん、僕もこの話を結論として扱うのは危険だと思う。まぁ、時代の産物なのかな。だとすれば、僕らには理解できないのかもしれないね。」

科学の限界。二人の間にその言葉が横たわってきたように感じた。

これ以上は、突き詰めることはできないだろう。

二人は、残りの料理を平らげ、それぞれの帰路につくのであった。



的場は、自家用車に乗っている。

今となってはすっかり見慣れた運転席。

「的場!何やってるの?早く行こ?」

助手席で声が聞こえる。

声の方向に視線が向く。笑顔で話す女性の顔が映る。よく知った顔だ。

促されるまま、車を走らせる。

その道中、助手席から風が吹き込む。どうやら窓を開けたようだ。

「海風が気持ち良いねー」

再び助手席から声が聞こえる。

的場は、窓から外を見る。どうやら海沿いの道路を走っているようだ。的場の地元にあるお気に入りのドライブコースの一つである。

実に穏やかな海の様相。海風、太陽の光が優しくその空間を包み込む。本当に心地よい。



あれ?

的場は、再度助手席に座る彼女の姿を見ようとする。妙に体が重い。まるで、それを拒んでいるようだ。

彼女の姿を明確に視界に入れる。

何で貴方がここに?

それに


今、夜じゃないか?





ピピピピピピピピピピピピピ


「ハッ!!」

ガバッ!!

スマホのアラーム音に引っ張られるように飛び起きる。

時刻は6:30を過ぎようとしている。

「やけに、リアルな夢だったな。」

的場は妻の方を向く、その姿はない。既に起きているようだ。

着替えを済ませ、台所に行く。朝ごはんを作る妻の後ろ姿。

見慣れた景色であるはずなのに、安心感で溢れて止まらない。

今すぐにでも、抱き着きたいところであるが、寸でのところでそれを堪える。

「おはよう」

的場は、その後ろ姿に声をかける。

一瞬動きが止まり、さっきまで手元にあった目線が的場の方に向く。

「おはよう。ぐっすりだったね。」

再び、手元に目線を戻す。

「親父、はよ~」

長女が眠そうな目を擦りながら台所に入る。次女、三女もそれに続く。

家族で、朝食を食べる。やけに娘たちがのんびりしている。

「学校は大丈夫なのか?遅刻するぞ?」

嫌悪に満ちた顔が三人分的場に向けられる。

「何言ってんの?今日土曜日だよ!」

的場はカレンダーを確認する。

「あ・・・。すまない・・・。」

「お父さんは今日も大学?」

次女が問いかける。それに続けて長女が続ける。

「てか、よく毎日学校なんて行けるよね。親父が真面目だと私たちに変なプレッシャーかかるから勘弁してよねー。」

そうは言うものの、長女は成績優秀・スポーツ万能・生徒会長にテニス部の部長も務める天才肌である。ここだけの話であるが、的場の学生時代よりも断然優秀である。

まったく、誰に似たのだろうか?


しかし、娘たちの言う通り、少々大学に入り浸りすぎているのかもしれない。

曜日感覚がなくなるほどには。

的場は、急遽予定を変更し、家で過ごすことにした。

「朱美(あけみ)、今日は何か予定入ってる?」

朱美。妻の名前である。

「入ってないけど、どうして?」

「もしよかったら、今日は皆で遊びに行かないか?」

「親父・・・やっと反省したか。根詰め過ぎなんだよ!」

「ひろくん、今日は学生じゃなくて家族の面倒を見ること!」

皆、乗り気である。ありがたいことだ。


家族会議の結果、最近できた動物園に行くことにした。

動物との距離がとにかく近いことが売りらしい。

少々遠いが、気合いで何とかなるだろう。

各々が準備に取り掛かる。朝型一家の利点、ここに極まれり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る