第8章 予感と舵切り
室橋は、スマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作をする。
「これを見てください。スマホなので、少々見づらいですが。」
室橋は、大学のHPにある。部活動・公認サークルのページから、室橋が所属していた軽音楽サークルの詳細資料を表示して見せた。
毎年、添付する必要があるらしく同じ書式の資料が時系列順に並んでいる。
その内、一番古いものを室橋はタップしPDFファイルを開く。
そこには、軽音楽サークルの発足初年度の基本情報が書かれていた。
北央大学公認サークル第72号
軽音楽サークル「North Center (ノース センター)」
創設者:室橋 雪乃(北央大学教育学部初等教育学科2年)
代表者:同上
顧問:北央大学学生支援課(代理)
発足初年度構成員:古間 颯人(北央大学教育学部中等教育学科2年)
音羽 琴美(北央大学芸術学部音楽学科2年)
白神 夕樹(北央大学農学部総合農業学科2年)
中田 未央(北央大学教育学部中等教育学科1年)
主な活動内容:学内イベントをはじめとした音楽活動
音楽を軸とした地域貢献活動
意外なことにこのサークルは室橋が立ち上げたものであった。見かけによらず行動力があることに的場は少々驚きながらもじっくりと目を通す。
「顧問が『学生支援課』っていうのはどういうことだ?」
「あー、顧問の先生が見つからなかった時に最初の2年だけ学生支援課が代理を務めてくれるんです。」
「ほうほう、そんなルールが…」
大学のシステムは細かく、そして複雑だ。教員ですらその全貌を把握できているわけではない。しかも、毎年改定されたりするので、学生の方が詳しかったりする。
「今は、木南先生に顧問をしていただいています。」
どうやら、木南が着任した段階で室橋が木南に軽音楽部の顧問になってくれるよう頼んだそうだ。着任早々忙しない彼女の境遇に的場は同情した。
構成員の一覧に目を通す。
古間もサークルのメンバーであったことに的場は驚く、案外学生のことをよく知らないのかもしれない。的場は、自分の学生理解の努力が思いのほか実を結んでいないことを意外な形で思い知ることになった。
「音羽…。名前だけは聞いたことがあるな。芸術学部のピアノの天才だとか。」
「ええ。今は海外の音大に留学中です。詳しくは知りませんし、今はあまり連絡を取ってないんです。」
卒業を機に疎遠になる。そんな感じだろうか。それ自体はそんなに珍しいことでもない。的場も、年を重ねるごとに古い友人はどんどん減ってきている。
「そういえば、未央ちゃんってどんな感じですか?」
「会ってなかったのか?」
「未央ちゃん、私たちが引退するタイミングで一緒に引退したんです。早期引退ってやつですね。それ以降、みんなそれぞれのことが忙しくなって…。私も引退以降は颯人以外と会えていないんです。あっ、実は私、古間君と付き合ってまして…。古間君から聞いてません?」
「いや…初耳だ。」
的場は気づいていたが、敢えて何も知らないふりをした。
「もしかして颯人、隠してたのかも。的場先生、私が言ったことは秘密でお願いします!」
「言われなくても誰にも言わないよ。もちろん古間にも」
的場は、ふと、自身のここまでの人生を振り返ってみる。今思えば、学生時代に浮いた話は1つもなかった。ずっと振られてばかりだったからだ。特に高校生の時の失恋はさすがに堪えた。3年間好きだったからだ。その日を境に自分は幸せには成れない。本気でそう思っていた。
だからこそ、大学4年の時にできた彼女が愛しくて仕方がなかった。その人が今では的場の妻であるのだが、的場にとって最初で最後の彼女であるわけである。
だからこそ、的場は誰であれ、一つ一つの恋愛を大切にしてほしいという強い思いがあった。余計なお世話であると思うが、せめて邪魔にならない所で見守りたいと思ってしまうのである。
「話を戻しましょう。理科の研究室での未央ちゃんはどんな感じでしたか?」
室橋の一声がなければ、話が脱線したことにすら気が付かなかった。的場の話好きでそれでいて思考に浸りがちな性格の欠点である。
的場は、自分の把握している中田の人物像を思い浮かべ、室橋に伝える。
オレンジに近い明るい髪色で短髪。黒の革ジャンを着こなす室橋以上にロックな印象の外見。控えめな見た目の学生の多い理科教育学分野の中ではかなり目立つ風貌であること。その割に、静かで誰かと行動を共にしているところはほとんど見ないこと。
その姿はまるで…
「一匹オオカミ…」
二人の声が重なる。
しかし、室橋の表情は何処か納得のいかないようであった。
「とはいえ、中田さんは田嶋研究室の学生だ。普段の様子なら田嶋先生やそこの学生の方が詳しいだろう。」
的場は、補足を入れる。
「そうだとしても、私が知ってる未央ちゃんとは全然違うんです。」
的場は困惑した。そんなことを言われても、嘘を言ったわけではない。あくまで自分が知っている中田の人物像を正直に話したわけである。
そうでない、中田の姿があるのだろうか。何かが破裂したように室橋が言葉を吐き出す。
「未央ちゃんは明るくて、素直で、誰とでも仲良くなれるタイプだと思うし、少し甘えん坊だけど努力家で、ギターの才能もあって、それで…」
的場の言葉を上書きしようとするように必死に言葉を重ねる室橋を見て、的場は、その言葉たちに嘘は一切ないことを確信した。
ただ、学生が教員や研究室の人間と親しい人間といる時とで様子が変わることは当たり前にあることである。学生に限らず、誰だってそうだ。
どうやら、中田と親しい関係の人物をもう少し漁る必要があるだろう。本格的に調査に踏み出すのであれば。
「落ち着いて、分かったから。別に室橋さんの言っていることを疑っているわけではない。」
あらゆる感情が溢れ今にも涙を流しそうになっている室橋を落ち着かせる。
室橋の言葉や様子を見て、中田と室橋が本当に良い関係であったと的場はしみじみと感じた。中田は室橋のことを慕っていただろうし、室橋もまた自分に懐いた中田という後輩が愛しくて、大好きだったのだろう。
的場は胸が熱く、痛くなるのを感じた。
『大好きな存在にはいつまでも元気で、笑顔でいてほしいものである。そのためには、自分をも犠牲に出来る。誰かを好きになるということはそういうことである。』
それは的場の持論であり愛するという上での信条であった。
誰かのために必死になる若者を前にして、それを放置する教育者が何処にいるのだろうか。的場は調査に舵を切ることにした。中田の身辺を漁った所で何か収穫があるとも思えない。そもそも、中田が目覚めるなんてことは有り得ないだろう。
ただ、「何か」がある気がする。それだけで的場にとっては十分であった。
当然、普通の大学教員であればそんな曖昧なものに時間を割くことはないだろう。
だが幸い、的場は、『北央大学一暇な教員である。』
落ち着きを取り戻した室橋に的場は協力の意を伝える。
「室橋さん。調べられるだけ調べてみましょう」
都合の良い状況は連続して起こるものである。北央大学は8月中旬から9月一杯が夏季休暇である。来週を乗り越えれば、俗にいう、夏休みである。
「まずは、もう少ししっかりと資料を読み込んでいきましょう。私が思うに、このサークルのメンバーが中田さんにとって『親しい存在』です。」
的場という頼れる教員がいる。室橋は的場と共に水面上で動き出した。
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