第6章 加筆の火蓋
妻に「晩ご飯はいらない」という極めて重要なことを伝え忘れていたことに気付き、
追加でメッセージを送る。
コンコンコン
的場の居室にノックの音が響く。どうやら室橋が来たようだ。
「どうぞ」
「失礼します。遅くにすいません。」
「コーヒーと緑茶、どっちがいい?」
「緑茶で」
「冷たいのでいい?」
「はい」
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます。」
的場は、どことなく懐かしい気がした。
教育学部では滅多にないのだが、他学部の教職課程の学生は、時として将来の不安を抱きやすい。各学部のカリキュラムをこなしつつ、教職課程のカリキュラムもこなすのだから、その多忙さたるや、そこらの学生の比ではない。
的場自身も農学部出身であるのでその実態は我が身を持って理解している。
教育学を専攻したのは大学院からである。
教職入門セミナーを担当していた時、たまに、他学部の教職課程の学生が相談に来ていたわけである。近年、この授業を担当していないので、今となってはもう昔の話であるが。
「それで、ご用件は?」
「大きく分けて2つあるのですが…未央ちゃんの件を先にしましょう」
「ちょっと待って。メモするから。」
あわてて前回、田嶋との擦り合わせでまとめておいた中田についてのメモを取り出す。しかし、守秘義務があるため、その内容が室橋に見えないようにバインダーを用いて常に手に持った状態でメモを取ることにし、質問を投げかける準備を整える。
「田嶋研究室の学生と同じ質問をするね。答えにくかったら無理に答えなくていいから。」
「ちょっと待ってください」
最初の質問を行う前に驚いたように室橋が遮る。
「もう答えにくかった?」
「そうじゃなくて…」
「未央ちゃんって田嶋先生の所だったんですか!?」
「知らなかったのか?」
「学科違いますし、サークルでも研究室のことまで話さないので」
実は、室橋は田嶋にも縁がある。室橋が所属する【国語教育学研究室(木南研究室)】は最近できた研究室である。厳密にいうと前任の教員が退職し入れ替わる形で研究室を新任の木南が担当することになったわけである。
木南 楓(こなん かえで)。北央大学 教育学部 初等教育学科 助教授。
専門は日本近代文学。元々は作家を志すものの挫折。しかし、研究実績が評価され、大学院博士後期課程終了後に北央大学に着任する。研究者としても教員としても新人である。
室橋曰く、決して目立つタイプではなくかなり控えめな性格らしく、学園マンガに出てくる図書委員長を彷彿とさせるらしい。目立たずとも委員長に上り詰める真のカリスマ性を感じさせるあのキャラクターのイメージである。
室橋が大学3年になるタイミングで着任し、小説文の教育を専攻したいと考えていた室橋が、所属したという流れである。
田嶋と室橋の繋がりは、木南研究室とは別の文学系の研究室が室橋の執筆した文学作品を略奪しようとしたことがあった。木南はあらゆる面で新人であり、劣勢であったということは言うまでもなく、単独では室橋を庇い切れない状態であった。
そこで室橋は的場に相談を持ち掛け、相談を受けた的場が当時、研究倫理委員会委員長であった田嶋に通報したことで事態が解決に向かったというわけである。
その後についてであるが、未遂とは言え、事件の主犯がその研究室の教員であったことで、懲戒免職になり同時に研究室も潰れたとのこと。所属していた学生も新たに受け入れてくれる研究室が見つかるはずがなく留年が決まった…というところまで的場は把握している。
「田嶋先生にもよろしくお伝えください。」
「ああ。それはそうとなぜそんなに驚いたんだ?」
「未央ちゃん、文系なんですよ」
「…え?」
確かに『中等教育学科』であるので、文系も理系も混在している。
そして、文系の学生が、理科教育の道に進むということも、ない話ではない。
しかし、田嶋研究室のような理系の権化のような研究室を選ぶものなのだろうか?
「だから理科教育を選んだこともびっくりしたのですが、まさか田嶋先生のところだったなんて…それでびっくりしてしまって。」
「室橋さんの学科でもそうだと思うが、この学科は文系も理系も混在しているからね。ない話ではない。大学での学びの中で興味が出て、方向転換する学生は一定数いるものだよ。」
「私の同期にも似たような人はいるので、それは理解しています。ただ、未央ちゃん『音楽教師になる』って言ってたんですよ!」
的場はしばらく、言葉が出なかった。方向転換と言ってもあまりにも振れ幅が大きい。完全に混乱状態であった。
「なぜ、理科教育に来たんだ…」
的場のつぶやきに室橋が言葉を被せる。
「少なくとも2年次の終わりまでは、音楽教育をするつもりだったみたいです。サークルの時に未央ちゃんと少しその話題になったので。」
その話が本当であれば、かなり直前に方向転換を行ったわけである。
2年次の終わりまで、音楽教育へ進む意向を固めていたのだとすれば、『学びの中での方向転換』は考えにくい。
もし、何かあるのだとしたら中田が音楽教育から理科教育へ転換したタイミングであると的場は直感した。
的場の学校現場での経験から、突然の進路変更は外的要因が主である。ここで言う外的要因とは、家庭環境や人間関係を指す。家庭の経済状況や親の意向が子どもにとって突然のタイミングで障壁となること、少数ではあるが、意中の相手や好きな有名人と同じ学校に行きたい等が挙げられる。もちろんその逆も。
挙げ始めるとキリがないが、的場は、自身の経験則であることを伝えた上で、なるべく簡潔かつ明確に室橋にそういった事例を伝えた。
室橋は少しの間、静かになり何かを考えた素振りを見せた。その後、何かを思い出し、決心したように的場の方に向き直し言った。
「的場先生、それなら一つ心当たりがあります。」
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