第3話


「久しぶりね灯真とうま。元気してる?」


「ボチボチだ」


 いつものように薄暗いカラオケで対面に座ると、今までは置いてなかったカラーボールが壁紙を七色に照らした。国見の顔は見えない。けれど、彼女の柔軟剤の匂いは思い出が過去の遺産であることを教えてくれる。


「借りてたハンカチを返したくて」


「そんなものべつに。...いや、やっぱりもらうよ」


 先月かな。映画を見に行った。好きだの愛だの、クサイ言葉の多い駄作だと思った。だから俺はハンカチをしまった。けれど、横で鼻をすする音がした。俺はハンカチを渡した。ありがとうと小声で言われた。彼女は涙を拭った。勝ち気に見えて意外と涙脆いところ、クールに見えて結構ゲラなところ。そんなところが大好きだった。クサイと思っていた言葉も今なら分かる気がする。その言葉以外、見つからないから。


俺と国見の関係はこのハンカチを最後に無くなってなってしまうのだろう。


「研究の方はどうだ?進展あったのか?びーおーえむすりー...だっけ?」


「惜しい。bom-2。進展ってほどのことはないよ。それこそボチボチ」


「あーそっか」


 新曲の宣伝をする歌手の声だけが個室の中で響いた。


「じゃあ、テニサの先輩とはどーなったんだよ」


「まあ、順調だよ」


「そこはボチボチじゃないんだな」


「まあね、今度映画見に行きた"い"ねって言ってる」


未来に向けて生きる人は、よく "い" を使う。過去に取り残された人は、よく "た" を使う。俺は "た" を捨てられずにいて、彼女は"い" と共に進んでしまう。俺も "た" を捨てれば、幸せになれるのかな。


 けれどそれを捨てた時は、に変わってしまった他人同士。もう元には戻れない。俺は春香といた時間が一番好きだっ"た"。この気持ちは、まだ捨てられそうにない。


「ハンカチはもう使わないのか」


「...うん、大丈夫。もう泣かないから」


 俺たちは店を出た。国見は車で来たらしい。最後は窓越しに手を振って、お互いの帰路に立った。もう進む道は違うらしい。

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