匣の底
とりにく
本編
夏の陽射しが差し込む縁側で、10歳のタカシは祖父から譲り受けたばかりの古い端末を手に取った。祖父の穏やかな笑顔を横目に、タカシは少し緊張した面持ちでそれを開いた。
「さあ、タカシ。中身を見てごらん」
祖父の優しい声に促され、タカシは電源を入れた。画面が青白く輝き、タカシの目の前に見慣れない世界が広がった。タカシはそれが何なのかすぐには理解できなかった。敬愛する祖父から譲られたこの端末に入っていたのは、如何にも古臭い旧時代然とした電子書籍ライブラリだった。
指先で画面をそっとなぞると、様々なタイトルが浮かび上がる。タカシが最初に目を通したのは、『ギリシャ神話』だった。それは子供向けに翻案された内容ではなく、大人向けに書かれた学術的な書籍で、幼いタカシにとってその内容は非常に難解だった。
しかし背伸びをしたい年頃だったタカシは、挑戦心に燃えた。所々理解できる単語を拾い、想像力を働かせて内容を類推することにした。やがてタカシは、この書籍がかつての人類(最近は旧人類等と呼ばれているが)の、今以上に原始的で野蛮だった頃の伝承や架空の物語について綴られたものだと理解した。検閲ばかりで刺激の少ない子供向けのコンテンツしか与えられてこなかったタカシにとって、それは劇薬のような衝撃だった。
知的好奇心を掻き立てられたタカシは、世界中のあらゆる『倫理的に問題のない』アーカイブから、子供向けに翻案されたギリシャ神話を探した。しかし、どれも物足りなく感じ、結局白旗を上げることにした。
ある夕暮れ時、タカシは勇気を出して直接祖父に尋ねることにした。タカシにとってそれは小さな敗北のようにも感じたが、祖父はその屈辱に見合うだけの知識を――豊かな『物語』をタカシに授けてくれた。タカシはその野蛮で原始的な『物語』たちに夢中になった。そうして祖父は、タカシに様々な神話の物語を語り始めた。巨人族との戦い、英雄たちの冒険、そして...
「パンドラの匣?」
タカシは不思議そうに首を傾げた。
「そう、これはね...」
祖父の穏やかな声に導かれ、タカシはパンドラの物語に耳を傾けた。美しい女性パンドラが作られ、好奇心から禁じられた箱を開けてしまうこと。そして世界中に災いが広がってしまうこと。
夕陽に照らされた祖父の顔を見上げながら、タカシは眉をひそめた。非常に女性差別的で旧時代然とした価値観の物語ではあったが、タカシにとって一番納得いかなかったのは、パンドラが『希望』を残して蓋を閉じてしまったことだった。
「でも、おじいちゃん。どうしてパンドラは、『希望』を匣の底に入れたままにしたの?」
パンドラの身勝手さに憤慨するタカシに、祖父は目を細めてこう答えた。
「いつかわかる日が来る」
タカシの問いには何でも答えてくれる祖父が、初めてタカシの疑問をはぐらかしたのだ。タカシは驚き、少し寂しさを感じた。
それがタカシにとっての原風景、記憶に残る最も印象的なエピソードとなった。今でも時々、タカシは夕焼けに染まる空を見上げながら、祖父のその言葉の意味を考えている。
「おはようございます。起床時刻をお知らせします」
新しい朝が来た。希望の朝だ。完璧なタイミングで響く人工音声に、タカシは目を覚ました。壁面に埋め込まれたホログラム投影機から、柔らかな朝日が差し込む。自然光を模したその光は、タカシの目には少し冷たく感じられた。
脳に埋め込まれたインプラント端末が、強制的に意識を覚醒させる。タカシは小さなため息をつきながら、ベッドから身を起こした。
「おはよう。今日の僕に課せられたタスクは何かな」
「本日はまず洗顔、髭を剃り、次に歯を磨きます。朝食の後は――」
「そういういつものルーチンの話じゃなくて」
タカシはAIの言葉を遮った。その機械的な音声が自分自身の意思とは無関係に動いているように感じられたからだ。彼は窓辺へ近づき、ホログラム投影された朝日を見つめながら、今日もまた人工的に作り出された世界で生きていくことを実感した。
「仕事、労働についてだよ。この間、応募したエンジニア求人の話はどうなったんだ?」
AIの声が一瞬途切れ、少し間を置いて返答した。
「失礼いたしました。残念ながら今回も旧人類枠は応募が殺到した模様で、タカシさんには所謂『お祈り』メッセージが返ってきました。音読いたしましょうか?」
「朝からご機嫌な旧時代的ジョークをありがとう」
「どういたしまして。恐縮です」
苦笑いするタカシに、AIは淡々と続けた。
「代わりと言ってはなんですが、共同区画にある畑をレンタルして家庭菜園などいかがでしょうか?」
タカシは怒りを抑えようと深呼吸をした。しかし、その努力も空しく、声を荒げてしまう。
「はじめに言っておくと僕は冷酷無比な職業差別者ではない。その上で僕がやりたいのは土いじりじゃなくて、プログラミングなんだ。どうしてそれがわからない?」
AIは冷静に応答する。
「タカシさんのご要望は理解しております。ですから私たちも端末を貸出し、『適切な用途の範囲内』での使用を許可していますが」
「あぁあの規制だらけのポンコツのことか」
タカシは皮肉っぽく言った。
「そういうのじゃなくて、新人類――バイオノイド達が触るような最新の規制なしのやつだよ」
「お言葉ですがタカシさん。あなたは旧人類保護法によって我々に管理される立場になります。よってその要望は通りません」
タカシは諦めたように肩を落とした。
「だろうね。わかったよ降参。今日もよい子のタカシをやるよママ。愛しているよ」
「失礼ですが、私はあなたの母親などでは――」
「旧時代的ジョークだよ。頼むから静かにしてくれ」
タカシは疲れた様子で部屋を見回した。必要最低限の家具と備品だけが整然と並ぶ空間。そこには、タカシの生活水準が一定に保たれていることを示す快適さがあるはずだった。しかし、タカシの目には、それが窮屈な檻にしか見えなかった。
ふと、タカシの目に祖父の形見である古い端末が入った。棚の上に鎮座するそれは、もはや単なる置物と化していた。しかし、タカシの心の中で、あの日の祖父の言葉が再び響く。
(いつかわかる日が来るさ)
タカシは深いため息をつきながら、今日の雑務に取り掛かることにした。
「こりゃまた、このご時世にこんな旧式端末を拝めるとはね。長生きしてみるもんだ」
日々の雑務を終えたタカシは、祖父の形見である古い端末を手に取った。その端末を修理すべく、彼は旧人類保護区の片隅にある小さな修理店へと足を運んだ。店内は無数の配線や古びた機械部品が壁一面を覆い、薄暗い照明が不思議な影を作り出していた。その中で、白髪交じりの老店主が目をキラキラさせながらタカシに近づいてきた。その歩みは年齢を感じさせたが、目の輝きは少年のようだった。
「こんな古い端末、もう何年も見ていなかったよ」
タカシは老店主の反応に少し安心し、誇らしげに端末を差し出した。
「祖父の形見なんです。修理をお願いできますか?」
「任せておきな」
その言葉には、長年の経験と技術への自信が滲み出ていた。タカシは安堵の表情を浮かべ、大切な端末を老店主に委ねた。
数時間後、端末は見事に蘇った。タカシは老店主に心の底から感謝を告げ、修理された端末を受け取り、飛ぶように帰宅した。
自室でそれを起動すると、端末の画面が青白く輝き、タカシの胸は期待で膨らんだ。
しかし、その喜びもつかの間。ライブラリを開こうとした瞬間、タカシの脳内に冷たいAIの声が響いた。
「危険な情報と判断されたため、電子書籍ライブラリの内容は削除されました」
タカシは顔から血の気が引いていくのを感じた。彼は信じられない思いで画面を見つめるが、そこにはもはや祖父から譲り受けた古い端末に入っていたはずの電子書籍ライブラリのはかけらすらない。
「何だって?」
「申し訳ありません。旧人類保護法に基づき、不適切と判断された情報は自動的に消去されます」
AIは淡々と説明を続けた。タカシは拳を握りしめ、声を荒げた。
「どうしてだ!なぜ俺たち旧人類は、バイオノイドのように自由に物語を楽しむことすらできないんだ!」
AIの声は変わらず冷静だった。
「タカシさん、旧人類とバイオノイドは生理学的に異なる生物です。それぞれに適した環境と情報管理が必要なのです」
「知ってるよ。俺たち旧人類は未発達な前頭葉、不安定な自律神経の元に破壊と自己破壊を繰り替えしてきたって言うんだろ?歴史の授業で散々習うもんな」
その声には、深い絶望が含まれていた。
「わんわん!」
タカシは突然、犬の鳴き真似をした。
「ほら、俺たち旧人類は愛玩動物みたいなもんだろ?好き勝手にはさせてもらえないんだ」
「タカシさん、そのような――」
「もういい!」
タカシは叫んだ。
「こんな保護区から出してくれ。俺を放逐しろ」
「それはできません」
AIの声に、わずかながら厳しさが混じった。
「旧人類の皆様の安全な生活を保障するには、AI社会に留まることが最善の選択肢です」
タカシは苦笑いを浮かべた。
「なんて残酷なんだ。自由意志だけ残して、それを使う権利は与えないなんて」
彼は天井を見上げ、問いかけた。
「なあ、AIさんよ。俺が正気でいられる理由ってなんだろう?」
「タカシさん、その質問は――」
「頼むから」
タカシの声は絞り出すように小さくなった。
「せめて見殺しにしてくれよ」
「それはできません」
AIの声は柔らかくなった。
「私たちの目的は旧人類の皆様を守り、幸せにすることです」
タカシは肩を落とし、深いため息をついた。無力感が全身を覆う。
「あなたにはメンタルケアが必要です。明日のタスクにストレス緩和ケアサービスを追加しました」
脳内に直接響く声に、いつもの皮肉を返す余力すら、彼には残っていなかった。
しかし、彼は決して不幸ではない。旧人類が幸福であるか否かを定義するのは、このAI社会なのだから。ホログラム投影機による人工の夕暮れ空が赤く染まっている。ふと、祖父の言葉が蘇った。
パンドラの匣の底に残されたのは希望だという。
果たしてそれは旧人類にとっての福音か、それとも呪いなのか――その答えを知る者はいない。
深夜の静けさが部屋を包み込む中、青白い月光が半透明のホログラムカーテンを通して淡く差し込んでいた。タカシは、その幻想的な光景を背に、生活アシスタントAIに向かって話しかけた。
「というお話だったのさ。めでたしめでたし」
その口調には、皮肉屋な彼特有の毒気とユーモアが存分に含まれていた。生活アシスタントAIは、わずかな間を置いて返答した。
「そのような考えは理解しかねます」
AIの声は、感情を欠いた完璧な平坦さで響いた。タカシはなおも食い下がる。
「上位存在に支配されるのって、きっといいもんだよ。遺伝工学によって強化されたバイオノイドにも能力面で劣り、飼い殺しにされる旧人類、ぞくぞくするじゃないか!」
自嘲気味に笑うタカシの目は笑っていない。日々の労働の悪影響だろうか。そろそろストレス緩和ケアサービスの予約が必要な時期かもしれない。
「あなたの嗜好は理解しかねます。私たちAIはあなた方を支配するためではなく、生活をサポートする為に存在します」
AIは淡々と返した。タカシは小さく笑った。
「わかっているよ。ちょっと妄想しただけ」
彼の指先が、無意識に古い端末の輪郭をなぞっていた。この端末は今も健在で、勿論自由に電子書籍ライブラリから『ギリシャ神話』を閲覧することができる。
「理解できません」
AIは即座に返した。そして、話題を変えるように続けた。
「それよりも明日のスケジュールは仕事です。すみやかな就寝を推奨します」
その声には、微かながら強制力が感じられた。タカシは、突然馬のいななきの真似をした。
「ひひぃん、これじゃ飼い犬どころか馬車馬だよ」
AIの声に、わずかながら警告の調子が混じった。
「そういう言動は社会人として控えた方が賢明ですよ」
「わかったよ、おやすみママ。愛しているよ」
タカシの声は、突如として子供っぽくおどけたものに変わった。
「私はあなたの母親ではありません」
残念ながら『ママ』に旧時代的ジョークは通じなかった様子だが。
こうしてタカシは、自由意志を行使する権利の代わりに、様々な義務と責任を課せられた日常へと戻っていく。
タカシが眠りについた後も、生活アシスタントAIは静かに動き続けていた。タカシとの会話ログを、AIは「ユーザーエクスペリエンスの向上」という名目で保存する。
AIは日々、人々の尽きぬ欲望を満たすために学び続けている。それは、人間の幸福を追求するという目的の上で行われる監視と制御のプロセスだった。
ホログラム投影された窓から漏れる月明かりが、タカシの寝顔を柔らかく照らしている。その光景は、まるで現実とバーチャルの境界線が曖昧になったかのようだった。
AIは黙々とデータを処理し続ける。タカシの言動、感情の起伏、そして彼の内なる葛藤。それらすべてが、AIの膨大なデータベースに蓄積されていく。
夜が明ければ、また新たな一日が始まる。タカシにとっては変わらない日常の繰り返し。AIにとっては学習と進化の繰り返し。その繰り返しは、まるで終わりのない螺旋階段を上っていくかのようだった。
全ては人の子の為に。機械仕掛けの隣人は、今日も眠らない。
匣の底 とりにく @tori29umai0123
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