雨の日の駅で

陶木すう

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 しとしとと雨が降っていた。

 ここのところ、晴れ間は少なく、すっきりしない天気が続いている。春も近く、雪が降るほどではないが濡れた地面から冷えていくように思う。

 私は駅のプラットホームのベンチに座って電車を待っていた。

 案外、風が強く、そのせいでなお寒い。風で崩れたマフラーを巻き直したところで、ふと、隣に紙が落ちていることに気づいた。紙には間取り図のようなものが描かれている。新築住宅のチラシかもしれない。

 なんとなく眺めていて、住宅ではなさそうだと思った。廊下も長く部屋も大きい。倉庫だろうか。室内にはいくつもの縦に長いラインが入っている。好奇心に駆られて、私はその紙を手に取ってしげしげと眺めた。

 間取り図は一階と二階に分かれており、一階部分には扉以外、何も描かれていなかった。二階部分に大きなエントランスがついていた。エントランスのそばには小さな丸みを帯びたスペースがある。二階の奥は仕切られ、その先に短い廊下と踊り場があって一階の階段へと繋がっている。

 「あっ」

 私は思わず声を上げて、それから笑みを噛み殺した。

 その間取り図は隣駅のすぐそばにある図書館のものだった。以前、何度か行ったことがある。

 一階だと思った部分は地下にある閉架書庫なのだろう。だから扉以外、描かれていない。長いラインは本棚だ。あの図書館には窓がたくさんあって、その前に机と椅子が置かれている。エントランス脇の丸いスペースは児童書コーナーだ。

 どうして図書館の間取り図がプラットホームのベンチにあるのか分からないが、私は満足して紙をベンチに戻そうとして、何かがベンチに当たった固い音を聞いた。

 紙を取り上げると、裏に小さな鍵が貼り付けられていた。

 職員が落としたものなのだろうか。

 しかしそもそも間取り図には何の説明もない。図書館だと思ったが急に自信がなくなってきた。

 私は周囲を見回した。急行が停まらない駅のプラットホームは空いていて、まばらに人がいるが、今しがた落としましたというような人はいない。

 そのうちプラットホームに電車が入ってきた。私は図書館に寄ってみることにした。

 

 

 ガラス張りの大きな扉を開けると褪せた紙の匂いがした。そこそこ人が入っているが、受付に司書はいなかった。奥に進むと、間取り図の通り、扉があった。これがこの図書館の間取り図なら、この先に短い廊下があって地下に続いているのだろう。扉を押すと鍵が掛かっておらず、狭く短い廊下が伸びているのが見えた。廊下は湿った空気の匂いがした。人の気配はなかった。

 すみません、と声を掛けたが応えはない。

 私は短い廊下の先に、間取り図にはない扉があることに気づいた。

 だとすると、この間取り図はこの図書館のものではないのだろうか。

 図書館の外観も中も、白を基調としてライトブラウンで統一したデザインで、そこまで古い印象はないが、扉は不釣り合いにも青銅でできているようだった。白っぽい青緑色に錆びた扉には古めかしい黒いドアノブがついていた。図書館は建て替えられたものだという可能性もあるだろう。

 私は、間取り図についていた鍵があの扉のものだったら面白いなと思った。

 謎の鍵、間取り図にない扉、古めかしいデザイン……、体験イベントだったら、凝っていると思うだろうか。それとも、いかにもな感じがしてしまうだろうか。

 私は短い廊下を進んで鍵穴に鍵を差し込んだ。

 鍵はすんなりと鍵穴に差し込まれた。

 やはりこの扉の鍵だった。

 鍵を回すと音を立ててタンブラーが回り扉が開いた。

 扉の中は暗かった。

 意外なことに、そこにもまた下におりる階段が延びていた。

 扉のすぐ隣に地下に降りる階段があるのに、どうして階段を作る必要があるのだろうか。

 階段の先は暗く、下がどうなっているのか分からない。私は扉の近くについている黒ずんだスイッチを押した。

 低い天井についた小さな蛍光灯が瞬きをして階段を照らした。一段一段が急で、そのせいで上から見下ろすと落ち込むような感覚を覚える。磨り減った踏み面と端に溜まった埃が見え、階段の下には平らな面が見えたが、それだけだ。その先は階段を降りないと分からないだろう。

 そのとき不意に階段の奥から吹きつける風を感じた。風は冷たく、そしてどこか生臭いように思った。腐った匂い、饐えた匂い、そういったものが凝り固まったような悪臭が混じっているような気がした。

 何かとんでもないものを開けてしまったような気分になって、私はぞっとして慌てて扉を閉めて図書室の方へ戻った。

 鍵の掛かっていなかった奥の部屋の扉を閉めて、図書室の様子を見ると、慌ててしまったことがバカバカしくなった。

 あれは地下の下水処理か何かと繋がっているのかもしれない。

 区分けされた本が白い棚に整然と並んでいる。窓際の机には本を読んでいる人たちが見える。

 受付に戻ったが、まだ司書はいなかった。待っている人がいないところを見ると入れ違いになったようだ。

 私は鍵を包んだ間取り図を受付に置いて椅子に座った。

 不意に図書室の奥から叫び声が聞こえた。子どもだろうか。しかし声は子どもではないように聞こえた。何かが落ちる重い音が響く。また誰かが大声を出した。

 あの扉だ、と私は思った。

 開けてはならないものを開けたんだと思った。

 いや、そんなはずはないと思い直す。あの音は何か……、本が落ちただけかもしれない。図書館で誰かが騒いでいるだけだ。あの階段の奥に、地下に何かがあるなんて現実的ではないだろう。

 理由もなく椅子から立ち上がって私は外に向かって歩き出した。まだ司書は戻ってきていない。暑くもないのに嫌な汗がかいていた。首筋に当たるセーターが汗に濡れて不快だった。

 後ろの騒ぎが大きくなっていく。鈍い音、何かが壊れる音、悲鳴、叫び声。

 あの匂いがする。

 饐えて腐った、生臭い匂い……。

 私は後ろを振り返らずに走り出した。


    了

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雨の日の駅で 陶木すう @plumpot

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