練習問題8 声の切り替え:問1
本は語る:
チシャのサラダの不吉さを。魔女の農園に育ち、農夫が盗み出し、その妻がサラダに仕立て、結果として産まれた娘が塔に閉じ込められる発端となった、その一部始終を。
実那は見つめる:
ラプンツェルと題した布張りの本を抱え、目の前で揺れるテーブルクロスの端を。その向こう側で忙しく行き来する一対の脚を。蛍光灯の光のもと、てかてかと生白く光るふくらはぎを。実那の母親の脚を。
母は夕食の準備をする:
流しの前からコンロへ向かい、スープの鍋をかき混ぜて、オーブンの前へ。扉を少しだけ開くと、りんごの香りをまとった蒸気が漏れた。ポットローストの具合を確かめると、テーブルの方へと向きなおる。
テーブルの下には実那が居る:
赤い花柄のスリッパをつっかけた素足がこちらに向いた。母親の足先が、のみならず彼女の手足も、言葉も、10歳の実那を害したことは一度だってない。それにも関わらず、実那の背中に尖ったものを向けられたような感覚が走る。
朗らかな声が来訪を告げた:
キッチンで出迎えた実那の母へ「ワイン買ってきたよ」と伝える。彼女と揃いの、マリメッコ風のプリント地のスリッパ(ただしこちらの花色は紺だ)を履き、勝手知ったる様子でダイニングテーブルへ向かう。
実那は装う:
つい今しがた落とし物を拾い上げましたよといった態度で、ダイニングテーブルの下からのそのそと這い出た。
かしこまった料理たちの中心にガラスのサラダボウルが据えられている:
遡ること30分前、一玉のロメインレタスが実那の母によって丁寧に洗われ、千切られ、オリーブオイルと海塩を纏わされて、カッテージチーズで化粧を施されている。そうして現在はガラスの器の中でいっぱしのサラダとして振る舞っていた。緑と白、淡い苦味と塩気のいさぎのよい取り合わせは実那にとっては背伸びを思わせ、今しがたの来客である文乃にとってもことのほか好む味だった。
文乃は勝手知ったる様子でテーブルセッティングをする:
真珠色のポリッシュを塗った指先がクリスタルガラスのボウルをそっと押しのけ、ワインボトルを滑り込ませた。ダイニングキッチンを横切って食器棚を開くと、ワイングラスを3つと実那専用のピンク色のコップを取り出した。
実那はのろのろと椅子に腰かける:
ラプンツェルの本は腰と背もたれの間に突っ込んだ。彼女自身はその理由を上手く言葉にできなかったが、つまりは、女ばかりの食卓に載せるのはあまりに意味深な代物なので気が引けたからだった。実那は思う。カヨコおばあちゃんがやって来ると。
その頃、佳代子はタクシーの後部座席に居た:
むっつりと黙り込んだまま、窓の外を流れる灯りを睨んでいた。住宅街では、あらゆる家が暖かな光を窓からこぼしている。しかし団欒の象徴のような電球色の元、どんな光景が繰り広げられているかは誰もわからない。
実那はとうに知っていた:
実那のママと、ママの親友の文乃ちゃんが、親友じゃない間柄なことを。おばあちゃんがやって来るのは娘の恋人と顔合わせするためということを。
実那の母は文乃を大親友と呼んでいた:
しかしながら、自分の両親に文乃を決して会わせようとしなかった。
チシャのサラダは食べられる:
遠からずの未来、実那の家で、女たちによって。
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