練習問題6 老女:B

 山積みのオレンジを前に彼女は憤然とした。彼女は生の果物を好まない。だからそのおすそ分けは手に余る代物だった。彼女は踏み台に昇り、吊り戸棚から大鍋を取り出す。そしてこんな時、身体と気の利く若者が近くに居ればどれほど楽なことか、と心の内でぼやいた。

 死別した夫とは子のないままだったが、もしも『あの人』と添い遂げていたなら、当たり前の夫婦の幸せを得ていたはずだ。何しろ例の女は何人も子を産んでいた。オレンジの皮を手際よく刻みながら、彼女は鼻を鳴らした。

 あらゆる物体がぎらぎら光る、品のない八月の午後のことだ。当時の彼女には秀雄さんというボーイフレンドが居る。立ち振る舞いに品があるハンサムで、国立大の同窓生だ。彼女は彼と仲睦まじくやっているつもりだったので、その日、秀雄氏が畳に頭をこすりつけんばかりにして「よその女との間に子供ができた。責任を取って結婚することになる」と告げる前でただ呆然として、いや、それは話を作り過ぎた。今やいっぱしの老女となった彼女は思い直すと、刻み終えたオレンジの皮を琺瑯鍋めがけて一息に移した。

 当時の彼女とて、彼に横恋慕した女が彼に秋波を送っているのに気づいている。しかし恋人を信じ、見事に裏切られたという次第であった。その後の彼女は件の女から結婚式の招待状を送りつけられ、怒りのあまり遠方の学校で教鞭を取ることを決めて電車に飛び乗る。だから夫妻はそれっきりの仲だった。彼女が秀雄氏を思い出したのは、彼が大往生したと同窓会づてに知ったためだ。

 彼女はちょっとした愉快な企てを思いつき、親類の娘を加担させることに決めた。マーマレードが艶々と煮あがるまでには、段取りもまとまった。

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