練習問題6 老女:A

 ざるの上で、一山のオレンジ達がすましかえっている。ひとつを手にとり、皮にまんべんなく塩を擦り込んで、水で流して、たらいへ置く。手仕事を淡々とこなすうち、私の身のうちに奇妙な陶酔が満ちていく。私の心は手を置き去りにして、娘盛りへ逆戻りする。あの輝かしくも、忌々しい初夏の一幕。

 私の手はオレンジの皮を剥き続け、いっぽうで心は秀雄さんと連れだって橋を渡っている。晴れがましい気持ちで彼を見上げれば、秀雄さんは、私のボーイフレンドは微笑んで私を見下ろしてくださる。私の手がより分けておいた皮をこつこつと刻む。秀雄さんと私は確かに将来を誓い合っていた。私の手は依然オレンジの皮を刻んでいる。書店に足を踏み入れた私たち。そこにさも偶然かのように待ち受けていたあの女。染み入るような橙色の剥片を刻む。そう、私だ口を滑らしたのが原因で。地方じゃ洋書を置いている店なんて一軒も有れば良い方だから、待ち伏せだって簡単だ。オレンジ色を細切れにする。

 その日、私はプリント生地のワンピースを身に着けている。裾を取り巻くのは白く控えめなオレンジの花とみずみずしい果実で、それを翠色のベルトで留めてある。あの女の格好は……忘れることにしている。一体全体どんな了見で秀雄さんの前に現れるのだろう。私の身体はひとりでに動き、マーマレードにするためのオレンジの皮を刻み続けている。あの日の彼女は、その後の企みのどこまでを既に目論んでいるのか。無理に迫って、子供をこさえて、責任を取らせて……。

 包丁が空ぶりし、音高くまな板に当たる。その音と衝撃で、私はようやっと白昼夢から目覚める。

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