2. 壱花 ―天使なんか蹴散らせ―
繁華街の裏手を通りかかると、見慣れた顔がファストフード店のバックドアから出てきた。私は「小松くん」と声をかけようとして、やめた。その顔がショップユニフォームの袖に
「くっそ……」
彼の口から出た悔しそうな言葉は、地面にこぼれた気がした。何かあったのかもしれない。働くって、バイトでも大変なことなんだ。
でも小松くんはすぐに顔を上げた。それから、私がじっと見つめていることにも気付かず、意を決したように店内に入っていく。とても寒い日だったから、私は、彼の鼻は寒さのせいで赤くなっているのだと思うことにした。そうして思い出したのは――
『やだ、雨? 天気予報で言ってたっけ?』
買ったばかりのパンプスを見ながら、忌々しそうに亜美が問う。私がバッグの中を手で探りながら『にわか雨があるかもって言ってたね。傘、あるよ』と口に出したとき、横から亜美に差し出された、無骨な黒の折り畳み傘。
『僕、バイト先すぐそこだから傘いらないんだ。使って』
『え、いいの? ありがと!』
『バイト先に置き傘あるし、返すのいつでもいいから』
――亜美がとっさに作った笑顔に彼は照れた笑みを浮かべ、雨の中、走っていってしまう。そんな場面だった。
「すぐそこじゃ、ないじゃん……」
◇◇
「ね、彼氏ほしくない? 壱花みたいな清楚系ってモテるんだよ」
学食のA定食を前にしてもなかなか食べ始めない亜美が言い出した。よくある話題だとは思う。でも自分の話はしたくない。
「そうなの? 自分のことってわかんないな。亜美は? ……小松くんとか」
本当は言いたくなかった。でも、口に出してしまった。肯定してほしい気持ちと否定してほしい気持ちが、同時に私を襲う。彼は亜美のことを好きだから、肯定なら、二人の恋を応援する。否定なら……どうして私は否定してほしいのだろう。心に煙が立ち始めたみたいにモヤモヤする。
「小松くん、いつも親切にしてくれるんだけど……」
「対象にならない?」
「うん。かわいい系だし、好みじゃないからそういう対象にはならないかな」
亜美がスマホの動画を一旦止めて物憂げに瞳を伏せ、軽くため息をついた。何だか大げさな演技のように思え、私は心の中でため息をつく。
「んー、でも優しいし、けっこういい人だよ。亜美のこと大事にしてくれると思うけど」
「そうかもしれないけど、壱花にだって外見の好みくらいあるでしょ? わかってよ、この気持ち。あーあ、大学入ったら彼氏できると思ったのに」
ピンクベージュのゆるふわミディアムヘアを指先でいじり、亜美はまた大きく息を吐いた。『かわいい』を追求した、完璧なメイク、完璧な仕草。繊細なパール感のある頬やくすみローズのリップ、シアーピンクのアイメイクは、亜美を可憐な天使のように見せている。
出会った頃の亜美は飾り気のない、純朴な女の子だった。本人は何も言わないけれど、メイク動画やコスメの口コミ情報なんかを見て研究したのかもしれない。「中国語嫌だなぁ」と言いながら、難しい発音などもしっかり勉強していた。私は亜美のそういう努力する姿勢が好きだった。
「……ねえ、亜美、小松くんに傘返した?」
「えっ、傘?」
亜美は目線を上にやり、考え始めた。でも何も思い当たらないようだ。
「前に借りたよね、外に出ようとしたら急に雨が降ってきたとき」
「あー、あのとき……。最悪だったよね、傘があってもパンプス濡れちゃうし」
「……そんな言い方ないんじゃない?」
亜美は「そう?」なんて言っている。ひどい。せっかくの厚意を無為にするなんて、信じられない。最近、こういうことが増えた。一つ一つは些細なことでも、いくつも重なるとだんだん嫌気が差してくる。
「傘、返してないの?」
「うん、シューズボックスの上に置きっぱなし、かも」
「早く返して」
「えっ?」
「早く返しなよ」
語調が荒くなった自分に驚く。でも、言ってしまいたい。だって私は——
「……何で……」
「借りたもの返さないなんて失礼でしょう。しかも『傘があっても』なんて、差して帰ったくせにひどい言い方して。最低。亜美のそういうところ、嫌い」
言ってしまった。でも後悔はしない、明日からは別行動。
放心している亜美をちらりと見ると、私は別のテーブルへ移動した。
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