終章β・友との記憶
選択肢2:「律のもとへ行かない」
俺は音楽室のドアの前で立ち尽くしていた。手は震え、冷や汗が背中を伝う。ドアの向こうから、かすかにピアノの音が聞こえてくる。その音色は美しくも儚く、俺の心を激しく揺さぶった。
「律...」
俺は震える声で呟いた。涙が頬を伝い落ちる。ドアに手をかけかけたが、律の言葉を思い出し、手を引っ込めた。
「ごめん...行きたいけど、行けないんだ」
俺は泣きながら話し始めた。声は震え、時折途切れる。
「うん...わかってる、翔太。君の選択は正しいよ」
俺は深呼吸をして、続けた。
「俺、ピアノともう一回向き合ってみようと思う。親とも話をする。だから...」
最後に話だけでもさせてくれ。
俺たちは、ドア越しに夏の思い出をぽつぽつと語り合った。初めて出会った日のこと、一緒に練習した日々のこと、最後の演奏のこと...。時間が経つのも忘れ、二人で語り続けた。
「律...本当にありがとう」
「僕こそ...翔太と出会えて本当に良かった」
最後に、律の声が優しく響いた。
「さようなら、翔太。幸せになってね」
その言葉を最後に、音楽室からの音が途絶えた。俺は、もう二度と律の声を聞くことはないだろうと悟った。
俺が目を覚ますと、周りはすっかり暗くなっていた。音楽室の前で眠り込んでいたようだ。
「おい、真中!」
校内を巡回していたゴリ沢の声に、俺は我に返った。
「先生...」
俺の目は泣きはらして赤くなっていた。渋沢は心配そうにのぞき込んでくる。
「大丈夫か?何かあったのか?」
バツの悪さを隠す余裕すらなく、俺は首を横に振った。
「いえ...ただ、大切な友達とお別れしただけです」
ゴリ沢は何も言わず、優しく俺の肩に手を置いた。
「さあ、家に帰ろう。二学期がはじまる。夏が終わったんだ」
俺は静かにうなずいた。音楽室を後にする時、最後に振り返り、小さくつぶやいた。
「――さようなら、律」
――エピローグβ――
15年後、東京のとある音楽教室。
「はい、だいぶ上手くなってきたね。今日はここまで。来週も頑張ろう!」
30歳になった翔太が、笑顔で生徒が帰るのを見送っている。壁には数々のコンクールの賞状が飾られ、部屋の中央には立派なグランドピアノが置かれていた。
生徒が帰ると、翔太は深いため息をついた。そして、ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには若かりし頃の祖父と、少年の姿が写っている。
「律...俺、夢を叶えたよ」
翔太は柔らかく微笑んだ。彼の人生は決して平坦ではなかった。両親との和解にも時間がかかった。しかし、音楽への情熱を失わなかったことで、少しずつ理解を得ることができた。今では、両親も時々この教室に顔を出すようになっていた。
翔太は立ち上がり、ピアノの前に座った。指が自然と鍵盤に触れる。そして、懐かしいメロディが流れ始めた。律との最後の演奏曲だ。
演奏が終わると、翔太はふと耳をすませた。かすかに、どこからともなく聞こえてくる音色。それは律のピアノの音色に似ていた。
翔太は優しく微笑んだ。
「律...これからも見守っていてくれよ」
窓から差し込む夕日が、翔太の姿を優しく包み込んだ。その光は、まるで律からの返事のようにも見えた。
4手のための幽奏幻想曲 とりにく @tori29umai0123
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