第三章・告白
「翔太ってさ、もうピアノはやらないの?」
律の突然の質問に、俺は思わず音楽室のドアを閉める手を止めた。夕暮れ時の柔らかな光が窓から差し込み、律の半透明な姿を優しく照らしている。振り返ると、律は真剣な眼差しで俺を見つめていた。その目には、何か深い思いが宿っているように見えた。
「...どうでもいいだろ」
俺は素っ気なく答えたが、心の中では何かが揺れ動いていた。
「でも、翔太の話を聞いてると、昔はピアノが好きだったみたいじゃない」
律の言葉に、俺は深いため息をついた。懐かしい記憶が、まるで古いフィルムのように脳裏に浮かんでくる。
「...5歳の時さ、俺のじいちゃんが勧めてピアノを始めたんだ」
言葉が口をついて出る。思い出すだけで胸が締め付けられるような感覚がした。
「じいちゃんは調律師でさ。俺がピアノを弾くの見て、才能があるって喜んでくれてた」
律は静かに頷きながら、俺の話に耳を傾けている。
「でも...12歳の時にじいちゃんが死んじまって。そしたら親父が...」
俺は言葉を詰まらせる。あの日の記憶が、鮮明に蘇ってきた。
「親父がピアノを辞めさせて、野球クラブに無理やり入れやがった。男らしくねぇとかなんとか言ってさ」
「それでグレ始めたのか」
律の言葉に、俺は小さく頷いた。恥ずかしさと後悔が入り混じった複雑な感情が胸に広がる。
「ああ...反抗したかったんだよ。でも、本当は...」
言葉を最後まで言えず、俺は口をつぐんだ。喉の奥に何かが詰まったような感覚。律はしばらく黙っていたが、やがて優しく微笑んだ。その笑顔は、まるで暗闇に差し込む一筋の光のようだった。
「翔太、もう一度ピアノを弾いてみない?」
その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。忘れていた感情が、一気に押し寄せてくる。
「俺なんかもう...」
自信のなさと恐れが、俺の言葉を遮った。
「大丈夫だよ。僕が教えてあげる。翔太の祖父さんも、きっと喜ぶと思う」
律の言葉に、涙腺が緩みかけ、ごしごしと目をこする。懐かしさと希望が入り混じった複雑な感情が、俺の中で渦を巻いていた。
「...わかった。ちょっとだけな」
そう言って、俺はゆっくりとピアノの前に座った。埃っぽい椅子の感触が懐かしく、少し緊張した。指が鍵盤に触れた瞬間、懐かしい感覚が全身を包み込んだ。冷たい象牙の触感が、忘れていた記憶を呼び覚ます。俺は深呼吸をして、ゆっくりと演奏を始めた。
最初は少し戸惑いがあった。指が思うように動かず、音が途切れがちだ。でも、次第に指が記憶を取り戻していくようだった。昔よく弾いていた曲の旋律が、少しずつ形になっていく。音符が部屋に響き渡り、俺の中に眠っていた情熱が少しずつ目覚めていく。久しぶりの演奏に、心臓が高鳴るのを感じた。
演奏が終わると、律が大きな拍手をした。その音が静かな音楽室に響き、俺の緊張を解きほぐす。
「すごい!翔太、本当に才能があるよ!」
律の目は輝いていて、心からの称賛が伝わってきた。その純粋な喜びに、俺は少し照れくさくなる。
「まあ...な」
照れくさそうに言いながらも、俺は密かに誇らしさを感じていた。久しぶりにピアノを弾いて、こんなに上手くいくなんて思ってもみなかった。
「これからも弾いてみない?僕が教えられることがあったら、喜んで教えるよ」
律の提案に、俺は少し考えてから頷いた。心の中で葛藤があったが、ピアノを弾いた時の気持ちよさが勝った。
「わかった。掃除と草むしりが終わったら...ちょっとだけな」
それからというもの、俺は日課の校内清掃と草むしりを終えると、こっそり音楽室に向かうようになった。誰にも気づかれないよう、そっと音楽室のドアを開ける。律と一緒にピアノの練習をする時間が、俺にとって大切な時間になっていった。日に日に上達していく自分を感じながら、かつて諦めかけていた夢が、少しずつ蘇っていくのを感じていた。
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