第二章・芽生え

 翌日、俺が校内清掃を始めると、ピアノの音が聞こえてきた。


「またかよ!」


 苛立ちを隠せず、音楽室に向かった。ドアを開けると、律が微笑みながらピアノを弾いていた。


「おはよう、校内清掃少年くん」

「うるせぇ!俺は翔太だ!お前、昨日言ったこと聞いてねぇのか?」


 律は少し困ったような顔をしたけど、すぐに笑顔に戻った。


「でも、僕にはこれしかできないんだ」


 俺は歯を食いしばりながら、ポケットから十字架(小学校の修学旅行で買ったお土産のドラゴンが巻き付いたやつ)をかざした。


「これでも消えねぇか?」

「それ、何?」


 効果がないと分かった俺は、次の日はいつかの露店で買ったブードゥー人形(とびっきりのブサイクさにウケて買った)を、その次の日は神社で買ったお札(悪霊退散が見つからなかったので交通安全を)を持ってきた。でも、どれも効果はなかった。


「翔太は優しいね。赤の他幽霊の僕を、成仏させようとしてくれるなんて」


 律の言葉に、俺は思わず顔をしかめた。優しいなんて、とんでもない。そんな風に思われたくない。


「ピアノがうるせぇからだよ」


 素っ気なく返事をした。でも、声には前ほど棘がなかった。律はそんな俺の反応を面白がるように、くすりと笑った。


「そんなにうるさい?我ながら天才ピアニスト美少年とほめそやされたものだけど」


 律は胸を張って自慢げに言った。その大げさな身振りに、俺は思わず吹き出しそうになった。


「美少年は余計だろ」


 律の能天気な態度に、俺の心の氷が少しずつ溶けていくのを感じた。律の明るい笑い声が音楽室に響き渡った。俺は口元を手で隠しながら、小さく息を漏らした。こんな風に誰かと話すのは、久しぶりだった。


 次の日、俺は草むしりと校内清掃を終えて、音楽室に顔を出していた。律の明るい笑い声に、俺は思わず顔をしかめた。でも、その表情には前ほど敵意はなかった。


「お前、ホントうるせぇな」


 俺は呟いたけど、その口調には柔らかさが混じっていた。律はピアノの前から立ち上がって、俺の方に歩み寄ってきた。


「ねぇ、翔太。僕の演奏、本当はどう思う?」


 俺は一瞬言葉に詰まった。正直に言えば、律の演奏は素晴らしかった。でも、素直に認めるのは癪だった。


「まぁ...下手じゃねぇよ」


 渋々言葉を絞り出した。律の顔が輝いた。


「やっぱり!翔太、音楽わかるんだね」

「うっせぇな」

「翔太は、どんな音楽が好きなの?」


 俺は驚いた。自分の好みを聞かれるのは久しぶりだった。


「別に...」と言いかけ、思い直す。「昔は、ショパンとか好きだったかな」


 律の目が輝いた。


「僕も大好き!特にノクターンが...」


 気がつけば、俺たちは音楽の話に夢中になっていた。俺は自分でも驚くほど饒舌に話して、律は熱心に耳を傾けてくれた。時間が過ぎるのも忘れて、会話は尽きることを知らなかった。俺の頑なだった表情はいつしか柔らかくなって、時折小さな笑みさえ浮かべるようになっていた。


「あ、もうこんな時間か」


 時計を見て驚いた声を上げた。律も少し残念そうな顔をした。


「うん、でも楽しかったね」

「まぁな...明日も文句つけにくるからよ」


 律は嬉しそうに微笑んだ。


「うん、待ってる!しっかり掃除と草むしりもするんだよ」

「うっぜえ。お前は俺の母親かよ」


 音楽室を後にする俺の背中には、もはや前のような重苦しさはなかった。代わりに、久しぶりに感じる心地よさが広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る