19.出発

 十分ほどすると、部屋の前からようやく母の気配が消えた。それでも用心のためにココは更に三十分、部屋のなかで息を殺していた。母への怒りをふつふつと湧かせ続け、一方でたどる道を頭のなかで何度もシミュレーションしていた。


 時計が十一時を差す。ココはドアに耳を押し当てた。かすかに母の声が聞こえてくる。誰かが来た気配も、隣の部屋のモモが起きた気配もない。ということは電話か。もしかしたら、芽衣ちゃんちへ今日行けなくなったと電話をしているのかもしれない。

 ──今がチャンスだ!

 ココは赤いダッフルコートを羽織ると、リュックを背負う。さっき作った即席バリケードを解体して、ドアを細く開ける。

 リビングのドアは閉められ、その向こうに母がいるようだった。ココはそっと部屋のドアを開け、音がしないよう滑るようにして玄関に向かう。靴を突っ掛けると、素早く玄関ドアを開けて家を飛び出した。

 もうあとは知らない。かかとを踏んだままエレベーターホールへとココは走った。



「あれ? あんた、なんでこんなところにいるのよ」

 ココの家の棟を出て歩き始めたところで、リセにばったり会ってしまった。

「前の学校に行くんじゃなかったっけ?」

 リセに話した覚えはないが、他の子達に話しているのを聞いてしっかり覚えていたらしい。

 弟だろうか。モモより小さい、多分年中か年長くらいの可愛い男の子とリセは手を繋いでいた。

「これから行くの」

 嘘ではない。ココは口を尖らせて言った。いつもならココのことなんて興味なさそうなのに、何故か今日はキョロキョロと辺りを見回してリセは続けた。

「でも、お母さんも妹もいないじゃない」

 モモと一緒に行くことも、リセは記憶しているのか。やたら突っ込んでくるリセに、ココは目を細めた。関係ないでしょとリセを振り切ろうとした、その時。リセと一緒にいた男の子が先に口を開いた。

「ねえ、これいいでしょー」

 なんのことかと視線を下に落とすと、男の子は木の棒を持っている。棒の先にはなにか白いものが──

「あっ!」

 その白いもの自身の重さでか、棒がくるんと回転した。白くていびつな形のそれは、見事にココのお気に入りのスカートにべったりと引っ付いたのである。


「ぎゃああああああ!!」


 ふわふわ綿のような泡のようなそれが、カマキリの卵と気づいた瞬間。ココは、家にまで聞こえてしまうのではないかと思うくらいの悲鳴をあげた。




「ごめん」

 リセに素直に謝られると、なんだか調子が狂う。

「いいよ、リセは悪くないでしょ。てか弟くんも悪くないよ」

 かまきりの卵をリセが慌ててスカートから離してくれたが、明らかに卵の一部が付いてしまった。家が近くだからと、リセが泣く弟をなだめながら、泣きそうなココを自分の家まで連れていった。

 七号棟の一階がリセの家だった。ゆっくりできないし靴のまま玄関でいいとココが言うと、リセがバスタオルを持ってきた。タオルを腰に巻き、脱いだスカートをリセは洗ってくれた。

 

 リセは玄関の上がり框に座るココの前で、スカートの水分をタオルで押さえて、今度はドライヤーを当てている。奥の部屋からは、さっきココにかまきりの卵をつけて大泣きしていた弟の笑い声が聞こえていた。

「手際いいね」

「わたし、弟二人いるからね。こういうの、よくやってるからさ。てかあんた、急がないといけないんでしょ」

 そんなこと、全く知らなかった。

 ココのことをあんなに鋭い目つきでにらみ、取っ組み合いの喧嘩をしたリセなのに、泣き叫ぶ弟をなだめるリセはとても優しいお姉さんだった。

 そして弟に謝罪させ、リセも弟に代わってココにあやまっていた。今までのいろんなこと、リセはココに謝ったことないのに、弟のことではすぐに謝罪した。

 ココはモモのためにそんなこと、できるだろうか。

 ──あなたは自分のことばかり!! 妹が可愛くないの!?

 さっきの母の言葉が、ココの胸をよぎる。


「リセ、優しいんだね」

 言葉と一緒に、ぽろりと涙がココの目からこぼれた。

「はあああ!? なんか気持ち悪い!」

 リセが顔をしかめるので、ココは涙が溢れる目を細めて笑い声を上げた。


「あのね、妹が熱だしたの。だから行けなくなったの」

 リセがこんなことになって間に合うのか、などと心配などしてくれるから、ココは正直に話した。何故だろう、リセと普通のことさえ話すのもわずらわしかったはずなのに。

「で、なんでその格好……」

 ココの服装は、明らかにお出掛けする服だ。行けなくなったのにそんな格好で歩いているココに、リセは眉をひそめる。

「一人で行こうと思ったの」

「でも駅に向かうバス停は、反対方向でしょ」

 リセの不審げな視線に、ココは大きくうなずいた。

「お金ないもの。歩いていくの」

「はああああ!?」

 ココの告白に案の定リセは呆れて、ドライヤーよりも大きな声を上げた。


 十二月の今、お年玉の残りなどあるわけもない。しかもおこづかいは毎月二十五日なので、二十日の今日財布のなかには、たった三百五十円しかなかった。確か電車だけなら昭和駅までは、子ども料金で三百二十円だ。

「行きは歩いて、帰りは電車に乗って帰るの」

 ココの無謀な挑戦に、リセは目を丸くする。

「マジで!? 行けるの? 大丈夫なの!?」

 リセが心配するなんて、やっぱり気持ち悪い。ココはまた笑い出す。

「歩いたことはないけど、車で三十分くらいだから歩いて三時間くらい?」

 歩けない距離じゃないと思う。さっき部屋で閉じ籠っているときに学校でもらった地図帳を開いて、定規で測ったら二十キロくらいだった。

「三時間って! 道分かるの!? お腹すかない!?」

 何だかお母さんみたいだと、ココは笑い続ける。

「引っ越す前に何回か車で通ったから、道は何となく分かる。ご飯はグミ持ってきたから」

「グミって……」

 リセは顔をしかめる。視線を上に向け、少し考えたかと思うと持っていたスカートとドライヤーをココに押し付けた。

「ちょっとこれ乾かしてて!」

 そういうとバタバタと奥の部屋に消えていく。なんのこっちゃとココは大きくまばたきをした。



 五分くらい経ち、奥の部屋からリュックを背負ったリセが現れた。スカートはすっかり乾いたので、ココはスカートを履き終えていた。

「取り敢えず、おにぎり握ってきたから。わたしスマホ持ってるからさ、それで道分かるよ」

 言いながら靴を履くリセに、ココは大きくまばたきをする。

「ちょっ、ちょっとちょっと、どういうこと!?」

 ココはリセの腕をつかむが、リセはココには答えず代わりに家のなかに向かって、ちょっと行ってきますと言った。

「気をつけてねー」

「行ってらっしゃーい」

 どこかのんびりした女の人の声と、男の子の声が聞こえてきた。


「ねえ、リセってば!」

 家を出てどんどん歩き出すリセを、ココは慌てて追いかける。リセはようやく足を止めて、ココを振り返った。ほおを膨らませて、眉間にシワを寄せた呆れた表情を浮かべる。

「あんた学校でいい子ちゃんなのに、なんでそんなに無計画すぎるのよ! わたしが一緒に行ってあげるから」

「はああああ!?」

 今度はココが大声を出す番だった。

「聞いてた!? 歩いて三時間──」

「三時間二十分」

 言い切るリセにココは、目を見開く。ぽかんとしているココをよそに、リセは再び歩き始めた。レンガで舗装された山ノ上ニュータウンの中の歩道をぐんぐん進む。ココは慌ててリセを追いかけていく。

「なんでわかるの?」

 尋ねるココに、リセは無言でリュックの脇ポケットからスマホを取り出した。

「これで昭和駅までのルートと、かかる時間を調べたの。常識でしょ」

「わたし、スマホ持ってないもの……」

 通話ができる子ども用の携帯しか親からは渡されていない。それだって場所を特定されないために、家に置いてきた。

「じゃあ、なおさらわたしが必要だね。行くよ!」

 リセがココの左腕をつかみ、再び歩き始める。

「待って待って、待って!!」

 ココはそれを勢いよく振り払って、立ち止まった。リセも足を止めて怪訝そうな顔でココを見る。

「なんでリセは一緒に行こうとするの! わたしの学校だよ!? ていうかお母さんはいいって言ったの!?」

 ココは別にいい。むしろ言ったら止められるから、黙って行くのだ。でもリセは違う。三時間以上かけて昭和市まで歩いていくのを、親が許すわけないではないか。

 リセは必死になって訴えるココを、小さく息を吐いて目を細めて見た。

「親は知らない。夜まで帰ってこないもん」

「え? だってさっき……」

 奥の部屋から声が聞こえたではないか。

「ああ、あれはお姉ちゃん。もう時間もったいないから、歩きながら話すよ」

 リセは再び、ずんずんとレンガの道を歩き始めた。これではまるで、リセの前の学校に行くみたいではないか。


「うち共働きだし、お姉ちゃんには遊びに行ってくるっていったから大丈夫」

「遊びって」

 遊びではないと思うが。

 二人はレンガの道の終わりにある、石でできたポールを左右に避けて進む。ここで山ノ上ニュータウンの住宅街は終わり、普通の道路になる。リセはスマホを取り出し、再びルートを確認する。次の信号で左折をして駅を背に進んでいくと街道にぶつかる。しばらくその街道沿いに行けばいい。

「リセって弟二人にお姉ちゃん?」

 ココが指を折りながら尋ねる。リセはもう一人と言った。

「働いてる二十歳のお姉ちゃんと、今家にいた高校生のお姉ちゃん、あとわたしと保育園児の弟二人」

「五人兄弟……!」

 今時珍しい家族構成に、ココは目を丸くした。リセはまた目を細めて、ふっと鼻で笑った。

「お姉ちゃん二人とは一緒だけど、弟二人とはお母さんが違うの」

 急に話が難しくなった。ココは目を大きく二回、瞬きさせる。沢山の赤い土を乗せたダンプカーが、二人の横を通って行った。

「お母さんが違うっていうのは、えっとえっと」

「わたしを生んだお母さんとお父さんが離婚して、お父さんが今のお母さんと再婚して弟が生まれたの」

 リセはさらりと言うが、離婚とか再婚とか結構大変な話ではないだろうか。リセのにらんだり、ちょっと大人びているような視線や無愛想さは、こういうところから来ているのだろうか。

「悪いけど、親の離婚とか悲しんではいないからね」

 リセがココの心を読んだかのように言う。

「親が離婚したの、わたしが一歳の時だから。生んだお母さんのこと、知らないし。別にジツのコじゃないからっていじめられてないし」

「いじめるって……」

 世の中にはそういうこともあるって、マンガやシンデレラで読んだけど。

「ただねえ五人も子どもがいたら、ちょーっと帰りが遅くても、あんまり心配されないのよね。なんて言うか、親も慣れてる?」

「そんなもんかなあ」

 よその家のことはよく分からないけどと、ココは首をひねった。

 結局家のことは問題なさそうだが、リセは何故一緒に行ってくれるのか分からなかった。だけど一人はちょっと心細かったココは、これ以上の追及をやめた。

 

 午後十二時半、二人は昭和市へ続く街道を並んで歩き始めた。

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