18.モモの調子
今週のココはずっと上機嫌だ。気がつけば鼻歌を歌っている。
「あのねえ、ジンちゃんねえ」
「分かってる分かってる。土曜日に前の学校に行くんでしょ」
給食の時間、女子八人で机をくっつけて食べている時もついついニヤけてしまう。話しかけた隣のジンちゃんは、耳にタコと言った感じで黒目を上に動かして、話を切った。
代わりにクルミンが、ココに尋ねる。
「ココの前の学校って近いんだっけ? どこ?」
「電車で一時間くらい? 車だと三十分くらいかな。昭和市だよ」
車の方が半分の時間で着くのは、真っ直ぐ行けるからだ。山ノ上ニュータウンと昭和市を直線で繋ぐ電車はなく、ぐるりと大回りをしなければいけない。マラソン大会の日の土曜は、父が仕事なので母とモモと三人で車で行く事になっている。
「いいなあ、前の学校に遊びに行けて」
前の学校に好きな子がいたというカエデは、ほおを膨らませて羨ましそうにココを見た。
やっと、やっと芽衣ちゃんに会えるのだ。前の学校のみんなと会えるのだ!
来ていく服は決めている。お気に入りの白のニットにタータンチェックのミニスカート。それにこの前買ってもらった、赤のダッフルコートを着る予定だ。
当日は昼過ぎに小学校に行く。二時スタートの五年生のマラソンを応援した後、みんなと一緒に遊ぶのだ。そして一番の楽しみは、夕御飯を一緒に「るるん」で芽衣ちゃんと芽衣ちゃんママとココたちの五人で食べる約束! 「るるん」は、昭和駅近くにあるココの大好きなハンバーグのお店だった。山ノ上ニュータウンにはもちろん、Pセンターにも似たお店はない。
マンガは何とか描き上げた。書き終わったけど、実は全然終わらなくて後半は全部カットした。男の子から告白された後、レンアイか友情か悩んだ主人公が友情を取る話の予定だったけど、そこら辺は全部描けなかった。告白されて、その場で友情を選んで断って終わり。だって全然書く時間がなかったのだから、仕方ない。
もう、全てが楽しみだった。学校でも誰かを捕まえては、今週はずっと前の学校の話をしていた。家でもカレンダーに花丸をつけて、モモと指折り数えてその話ばかりしていた。
そのモモの調子がおかしくなったのは、金曜の夜七時過ぎのことだった。
夕御飯の準備を手伝いなさいと言われ、ココはテーブルを拭いてお箸の用意を始めた。モモはテレビの前から動かない。
「モモも手伝ってよ!」
いつも通り、なかなか手伝おうとしない妹をココは注意する。するとモモは耳が痛いと言い出したのだ。
手伝いなさいと言ったら、どこかが痛くなる。モモの常套手段だった。
「モモ、そんなことばっかり言って!」
ココの注意でモモは渋々手伝ったものの、ごはんの殆どを残した。母が食べるように促しても、いやいやと首を振って食べなかった。今朝まであんなに元気で、明日を楽しみにしていたのに。
もう寝たいと八時過ぎに自分の部屋に入っていくモモを見て、ココは嫌な予感を覚えた。
──そしてそれは的中する。
翌朝早くココは、ばたばたと部屋の前を走る音で目が覚めた。なんだろうかとココが部屋から出ると、父がモモの部屋に慌ただしく入っていくところだった。
「どうしたの?」
ココがモモの部屋を覗き込むと、真っ赤な顔をして寝ているモモと、床に膝を立てモモの顔を心配そうに覗き込んでいる母がいた。母は父が持ってきた氷のうを、ココの首筋に当てた。
「モモ、どうしたの!?」
ココの問いにも、モモは苦しそうに息をするだけで目を開けなかった。代わりに母が答える。
「モモ、四十度の熱があるのよ」
「えっ!?」
「病院が開いたら、お母さんが一番に病院に連れていってくるから、ココは取り敢えず部屋にいなさい」
うつるかもしれないからと半ば強引に父に背中を押されて、ココは自分の部屋に戻った。
部屋に戻ったココは、嫌なやつだと自分でも思いつつも、モモの熱より今日行けるかどうかの方が心配だった。
──神様どうか今日、マラソン大会に行けますように。
組んだ両手に力を込めて目を強くつぶり、一生懸命祈った。
だってあんなにも楽しみにしていたのだ。急に行けなくなるなんて、そんなの絶対に嫌だった。
父は会社に行き、母がモモを病院に連れていった。一人家に残されたココはずっと前から予定していた通り、白のニットとミニスカートに着替えた。
行ける。モモは熱が下がって帰ってきて、きっと行ける。きっと行ける。そう言いながら、リュックにマンガを描いたピンクのノートを入れる。
熱で潤んだ目をした赤い顔のモモが、母と家に帰ってきたのは十時過ぎだった。
「やっぱり中耳炎ですって」
モモを部屋に寝かして、ココのいるリビングに来た母は、そう伝えた。
「中耳炎?」
「昨日モモ、耳が痛いって言ってたでしょう。鼓膜のなかに膿が溜まってね、高熱が出るのよ。病院で膿を出してもらったから、もう少ししたら熱は下がると思うわ」
母の言葉にココは、ぱっと顔を輝かせる。
「もうすぐ下がる!? そしたらマラソン大会行ける!?」
「なに言ってるの!!」
疲れた表情でこめかみを揉んでいた母は、かっと目を見開いて急に怒鳴り声を上げた。あまりに急激な変化に、ココはソファに座ったまま、飛び上がりそうになる。
「行けるわけないでしょう! モモは昨日の夜も熱で苦しんでたのよ!」
「だって……」
モモの熱は、ココのせいではない。ココは今日、前の学校に行ってみんなと会うことをすごくすごく楽しみにしていたのに。
「じゃあ、わたし一人で行ってきていい? 電車なら乗れるよ。行き方も分かる──」
ココが話している途中で、母が思いきりテーブルを平手で叩いた。重く、張り裂けるような音がリビング中に響き渡る。
「なに言ってるのっ!!」
母は目をつり上がらせ、こめかみに筋を入れてココをぐっとにらんだ。
「あなたは自分のことばかり!! 妹が可愛くないの! 心配じゃないの!? なんでそう自分勝手なの!!」
「自分勝手って……」
ココのあごが、小さく震え出す。あとは言葉にならなかった。視界が涙で歪む。
「前の学校なんていつでも行けるでしょう! 大体昭和小昭和小って……今行ってるのはあけぼの小でしょう!? 何が不満なのよっ! こんな立派な家に引っ越せて! 自分の部屋ももらって!!」
「なんでそんなこと言うのっ!!」
お腹の奥から、精一杯ココは叫んだ。
なぜ母は、そんな言い方をするのか。自分の部屋も新しい家も嬉しい。
だけどこんな形で前の学校から離れるなんて、望んではいなかった!
それでも一生懸命納得して頑張ってきたのに! モモのことも心配しているのに!
なのにみんなに会いたいと思うだけで、どうして自分勝手になるのか!?
「なんで勝手に決めつけるの! お母さんなんて、なにも分かってないっ!!」
ココの悲痛な声に一瞬母は怯んだ。母の口がなにか言いたげに震えるのを見て、ココはリビングの入り口に立ったままの母を押し退けて部屋へ向かって走った。
家中が震えるほど、激しくドアを閉める。ドアが割れんばかりの音を立てた。
「ちょっとココ!? いい加減にしなさい!! 開けなさい!!」
追いかけてきた母が、ドアの取っ手をつかんで押し開けようとするがドアは開かない。当然だ。鍵はないが、ココがとっさに、ドアに小さな棚を押し当てて、そのなかに図鑑を詰め込んだから。
ココはまだ涙が溢れてくる目で、母が叩き続けるドアを思いきり横目でにらんだ。
──もうお母さんなんか知らない!!
用意していたリュックをつかむ。机の引き出しを開け、水玉模様の財布をリュックのなかに突っ込んだ。代わりに携帯電話をリュックから取り出して、机のなかに入れる。
この携帯電話は父と母と家にしかかけられない不便なもので、おまけにGPSがついているという今一番要らないものだった。
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