17.くだらないかを決めるのは
一週間後の朝、登校してきた珊瑚がはにかみながらココにピースサインをして見せた。
「取り敢えず、塾は辞めさせてもらった」
「まじで!?」
ココは目を見開き、手を広げて大きく拍手をした。
屋上に続く階段でうずくまり、抱き合っていた二人の元に羽村先生が来た。大将がそっと呼んできたのだ。その日の五年生の三時間目以降の授業は副校長先生が授業をして、羽村先生は珊瑚と呼び出した珊瑚の両親と話し合ったらしい。
「あたしは受験頑張れるって最初は言ったの。でも先生は、嘘をつくのはあたしが本当はつらくて嫌だと思ってる証拠だからって」
そして両親にも言ってくれたらしい。
「勉強はつらくて苦しい時もあるけど、泣きながらするものじゃないって」
先生の手前、分かりましたと納得して帰ったが、それでも珊瑚の母親は渋っていたという。
「夜中まで無理矢理勉強させたり、成績のことで叱ったりしないから。せっかくここまで頑張って来たんだからもう少し、お姉ちゃんと同じD女子校を目指してみない? 珊瑚ならできるよね?」
提案ではなく、半ば無理矢理説得したそうだ。
「それでよく辞めさせてもらえたね。まさか塾は辞めても、受験勉強は続けるとか?」
ココの問いに、珊瑚は首を振った。
「お姉ちゃんがね、もう辞めてあげてって説得してくれたの。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、珊瑚は珊瑚だからって。珊瑚の頑張りたいことを見つけさせてあげて、それを頑張る珊瑚を応援してあげてって」
「お姉ちゃん、めちゃめちゃいいこと言うじゃん」
やっぱり日本一の女子校の生徒会長は、言うことが違うなあとココは大きくうなずいた。そんな立派な自分の子どもに超立派なことを言われたら、教育ママも考え直すのだろう。いっそココの家にも珊瑚のお姉さんに来てもらって、
照れながら前髪をいじっている珊瑚の肩から、突如腕が伸びてきて亜里沙が顔を出した。
「良かったね、珊瑚」
つとめてぶっきらぼうな口調で亜里沙が言うと、珊瑚はくるりと向きを変えて亜里沙に抱きつく。
「あーん、亜里沙のおかげだよ! ありがとう!」
「もうなんなの、珊瑚ってば! いい子過ぎるでしょっ!」
口調は怒ってるのに、亜里沙はしっかりと珊瑚を抱きしめ返した。
「あたしゃ、あんたを
亜里沙は、普段は使わないおばあさん言葉で照れを隠しす。そしてくしゃりとさせて今にも泣きそうなその顔に、ココは小さく噴き出した。
おとしめたなどと言うが、亜里沙は珊瑚をどうこうしようと思ったわけではあるまい。単純な嫉妬から、あんなことを言ったのだろう。きっと珊瑚が教室を飛び出した後、現れなかったことにずっと後悔していたに違いない。
だから二日後、ようやく登校してきた珊瑚の前に、亜里沙は飛び出して行って真っ先に頭を下げた。ごめんなさいと、傷つけてごめんなさいと頭を下げて亜里沙は泣き出した。
気が強くて美人で頭もよくて、ちょっとプライドが高いと思っていた亜里沙がこんな風に頭を下げるなんて。それも教室の、みんながいるところでだ。
生徒たちが驚いているなか、珊瑚は首を振ってのんびりとした口調で返した。
「だって嘘ついてたのは、あたしなんだよ」
その後珊瑚と亜里沙は、ぎくしゃくもしないし、なんか前よりももっとずっと仲良くなった気がする。
「これであたしは綱吉くんと、同じ塾じゃなくなったし。亜里沙、安心してね。……まあ、元々何もなかったけど」
体を離した珊瑚が、両手を広げて無罪とばかりに顔の横で手を振って笑顔を見せる。綱吉くんを好きな亜里沙には明るい話だ。が、亜里沙はさっと顔を曇らせた。
ココは身構える。何か問題があるのだろうか。一難去ってまた一難?
ココの心配をよそに、亜里沙は眉をひそめて視線を左右に動かして辺りを伺うと、ココにもそばに来るように小さく手招きした。ココが立ち上がって亜里沙の傍で、珊瑚と同じく耳を傾ける。
「あのね、わたし、大将のこと好きになっちゃったかも」
これにはココも珊瑚も、一瞬にして目が点になった。
「え、あの、綱吉くんは……」
「まあかっこいいんだけどぉ。この前の時の珊瑚のことでわたしのこと掴んでキレた大将、男らしくてすごーくかっこよかった……」
「うぇぇぇぇぇ!?」
ココと珊瑚の口から、悲鳴ともうめき声ともつかぬものが漏れ出す。
あの日、珊瑚の嘘をみんなの前で暴露した亜里沙に、大将は本気で怒っていた。それは確かに男らしいが、怒られた亜里沙が、大将を格好いいと思うとは。でも大将って──
「おいっすー! 今日の給食カレーな!」
朝の挨拶と同時に、何故か給食のメニューを言いながら教室の前から大将が入って来た。
「きゃあっ」
亜里沙は両手を口の前に軽く当て、笑顔で悲鳴を上げる。大将はそんな亜里沙のことなど全く気にせず、入口そばの席のコバの肩を叩いている。
「コバ、お前今日給食当番だろ。オレにカレー大盛り、予約な」
朝から給食の大盛り予約。本当にあの大将がいいのか? ココは亜里沙にそっと視線を移す。今度はメガネに自分の好きなメニューランキングを発表している大将を、亜里沙は熱っぽい目で見ていた。
芽衣ちゃんへ
お元気ですか? わたしは元気!
あのねマラソン大会、お母さんが連れてってくれるってー!
モモと一緒に応援しに行くよ! みんなにも伝えておいてね。今からもう超楽しみだよ!
マンガもがんばって描いて持っていくね。最近いそがしくて~っていうか、お母さんに描いてるの見つかっちゃって。ほら、うちのお母さんマンガを悪と思ってるからさ。読むのも嫌がるし、描くのなんてちょー激怒! こっちからすれば勝手に見るなーって感じなんだけど(ぷんぷん)
そんなわけで、マンガは今学校で描くようにしてるの。だけど学校でも、クラスの男子とかには絶対見られたくないし……こっそり書くしかないんだよね。だからなかなか進まないんだよー! もう少しなんだけどな。
とにかくとにかく、マラソン大会楽しみにしてるね!
ココより
相変わらず部屋にこもるのを母は嫌がるし、マンガを描くのは辞めたことになっているし。結局描くのは学校しかなかった。だけどもうリセに見られたくないから、教室でも描けない。リセは描いてるけど。
しかし最近ココは、いい場所を見つけた。
毎週木曜の放課後「自主学習」のため、図書室が開放されるのだ。「学習」なのだが、当番の先生は生徒たちが騒がないよう見張りをしているだけだ。ノートに書いているのが字か絵かの違いだけで、特に大差ないだろうというのがココの(勝手な)見解だった。
木曜の放課後、日直だったココは日誌を職員室の羽村先生に届けるとすぐに図書館に向かう。今日はクライマックスの主人公が告白されるシーンを描くのだ。構図もセリフももう決めてある。
弾む心と緩むほおを一生懸命押さえながら図書室の戸を開けたのに、中を見た途端ココの心はぷしゅんと縮まってしまった。奥の窓際の席に、リセとジンちゃんがいるのだ。リセが勉強などするわけがない。時折こそっとジンちゃんがリセに顔を寄せてノートを覗き込んでいるのを見て、それは確信になった。リセもマンガを描きに来たのだろう。
相変わらずリセとはギクシャクしてるし、ましてや一度は鼻で笑われたのだ。一緒に描こうとは決してならない。それに描いているのをリセに見られて、またいじられるのも嫌だ。今日描くのは告白シーンだし。
やる気の失せたココは、マラソン大会まで二週間を切っておりもう時間がないとは分かりつつも、ランドセルから算数のノートを出した。
──宿題やって、今日は帰ろう。
それは正しい自主学習教室の使い方である。
「うっわー、お前なに描いてんの!?」
突然の大きな声にココは勢いよく顔を上げた。声がした図書室の奥の方を振り返って見ると、体の大きな六年生の男子二人が机を囲んでいた。
「ちょっと、やめてよ!!」
彼らの背中の隙間から見える、ジンちゃんのおびえた顔。リセの伸ばした手。
──彼らは、リセがマンガを描いていたノートを取り上げたのだ。
「うっわーマジキモー! 抱き合ってんじゃん! お前なに描いてんの!?」
「てか、これなにもしかしてフブキ? 妄想しすぎじゃね? やっばー!」
「やめてってばーっ!」
リセの必死の泣き声が聞こえる。静かだった図書館がざわめき始める。生徒達が奥で騒ぐ六年生とリセに注目するが、誰もが固まったままだ。最上級生、そのなかでも一際体の大きな二人だ。みんな、恐怖でなにもできなかった。
こんな時に、先生のいる気配がない。トイレにでも行ったのだろうか。
「やべえ、チューしてんじゃんー!」
「やめてええええっ!」
──好きだ嫌いだなんてくだらないもの、なんで描いてるのよ!
勝手にココのマンガを見た母の顔が、頭をよぎる。軽蔑した、嫌なものを見たというあの顔。
──そんな下手くそなもの描いて、一体なんになるのよ!!
母が背中に浴びせてきた、屈辱の言葉。
「やめなさいよっ!!」
気がついたら、自分よりもずっと大きな六年生二人の前にココはいた。
「なんだ、お前。五年かよ?」
突然現れた、邪魔な存在に六年生の一人が舌打ちをする。
「ココっ!」
リセの涙声が、背中の向こうから聞こえてきた。
「いい子ぶってんの? それともなに、お仲間? お前も妄想膨らまして、フブキでも描いてんの?」
「人のもの、勝手に見るんじゃないわよっ!!」
挑発するかのようにバカにしてきた六年生に、ココは体当たりをする。六年生の左腕をつかみ、右手にあるリセのノートをつかもうとするが背が足りない。
「いってえな……」
ココが体当たりし、左腕をつかまれた六年生の顔が歪む。
「お前なに調子乗ってんだよっ!」
もう一人の六年生が、ココを思いきり突き飛ばした。五年生の中でも一番小柄なココは抵抗できずに吹っ飛ばされ、後ろの椅子に突っ込んだ。
図書室のどこかで悲鳴が上がる。リセのココを呼ぶ声。走る足音が聞こえる。誰かが先生を呼びに行ったのだろうか。
ココは床からノロノロと立ち上がった。目はぐっと、ノートを手にした六年生をにらんだままだ。
体は震えていなかった。恐怖はなかった。ただ、許せなかった。
「くだらないかどうか決めるのは、あんたたちじゃない……」
歯ぎしりしながら、ココはつぶやく。耳に届いたもう一人のツーブロックの六年生が、顔をひきつらせた。
「お前なに生意気なこと言ってるんだよ! チビの五年がっ!」
ツーブロックが勢いよく手を振り上げた。その瞬間、ココは目をぎゅっと閉じ、お腹の底から叫び声をあげた。
「やめてー! 変態っ、わたしにさわんないでーっ!!」
「なっ!」
ツーブロックはぎょっとして、手を引っ込める。突如痴漢扱いされ、くちびるを前歯でかみしめる。ほおがピクピクと震えた。
「なにやってんだ、そこおっ!!」
バタバタと廊下を走る音と、男の先生の怒鳴る声が聞こえた。もう遅いよと、ココは腰を抜かしたようにへなへなと後ろの椅子に座り込んだ。
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