第8話 親と決断
振り返ってみれば、つくづく親という生き物に縁がない。
みどりの母は小さい頃から家を空けることが多かったし、教えという教えも受けた覚えがない。下されるのはいつも内職の『あれしろこれしろ』小学校の同級生が語る親が新鮮だった。
愛とは、家族とはなに?
そんな問いを臆面もなくしてしまう程度には、彼は人のもっとも基本的な営みを知らない。公園で子供と戯れる男女は、この上なく楽しそうだった。うつろに浮かんで消える光景は、そんな変哲のない他人の日常。
いつからか『 』を知りたいと願うようになった。
『 』は万人を満たすものであると知る。それは天がひっくり返っても変わらぬ価値を持つであろうと考え至る。同時に『 』されることがないことにも。
では、では…………『 』するしかない。
『 』以外のすべてを感じることによって『 』を浮き彫りにする。それによって人を満たし、満たされる。
みどりも人間、かわいいとか気色悪いとか感じる。しかし『 』だけはいくら文字を読んでも想起されない、想像もつかない未知だ。
だから許せない。きっと『 』を知るからこその苦しみを少女は抱えていた。
『 』に触れたなら幸福に生きろ。手前勝手で理不尽な願い。狂おしいほど求めても手に入らないことを知るみどりの
みどりは行商人で、それ以外の何者でもない。
深雪の夜、クリスマスの夜、この日だけは探索者ギルド員関係なく暖を囲み、和気藹々と語らう安寧の夜のはずだった。
「
「うちの娘をたぶらかそうとしたガキがなに言ってんだ、死ねよ」
肩に雪を積もらせたみどりは気負いなくインターホンを押した。
その結果はあっけなくついた。
全身真っ黒のコートに身を包みフードを被った何者かが上から降りてきて、みどりの目の前にいた少女らの父を首根っこから地面に叩きつけたのだ。
「がああ!」
「……どなたで」
みどりは表情を崩さない。
空気を読まない
もう一人、みどりの前に降りてきた。
「あなたが手を下す必要はない」
若芽の少女の声で静止された。
「……
どうせ誰ぞに恨みを買っていたのだろうと結論づけ、みどりは横を通り過ぎる。
敵意はない、害を与えるような意志を感じられない。
「あ、雪が」
「……」
少女はみどりの肩に積もる雪を払った。
なぜそのようなことをするのか、みどりには皆目検討がつかないが、見えないそのフードの中へ黙礼して玄関のドアノブに手をかける。
「こんばんわ〜、行商人だよ〜」
「や、谷々さん……?」
友達くらい軽く、辛気臭い顔をしないようにニパーと笑顔で開けると、一部始終を覗き穴からのぞいていた姉が引きつり笑みで後ずさっていた。
距離にして約一メートル!
「……はい」
「ああなんでもないんです!お父さんがだれかに押し倒されたあたりから急に谷々さんの顔が怖くなって、その……」
肩を落としつつも、ごにょごにょと口ごもる姉少女の傷が残っているか目測するが、杞憂だったと乾いた唇を緩める。
昨日とは違い、少女の服は外出を想定した藍のチェスターコートだった。透明感のあるブロンドの髪は肩の上で切り揃えられ、凛々しかった
「リストちゃんは?」
「っは、えっともう寝てます。あの、外の人は」
「さあ、知らんよ。アレをどうにかしてくれるなら気にする必要もない。で、答えは出た?」
「……」
押し黙っていた少女は意を決してみどりに目を合わせた。
「どうするんですか、それを聞かない限りは私は答えられません」
もっともだとみどりは得心して、深くうなずく。
「逆に問おう、君はどうして欲しい。己はメンタリストでもなければ、読心のスキルを持ってるわけでもない」
「わたしは……リストと平穏に暮らせれば、どこへでもいく。どんなことでもする……!」
みどりはまばゆいものでも見るように目をすがめ、ふところからエルシェル製の紙切れを取り出す。あらかじめそれらを使う手筈であったかのように。
胸の前に指で挟んだそれを留める。
「ソシウスの系ーカガリの徒よ、
詠唱魔法ー詠唱を
少女は探索者育成の高校に通っている手前、ニッチな魔法にも詳しい。必修科目だから、伝説的な魔法は概論として紹介されることすらある。
「詠唱⁉︎」
目を見張る。
ダンジョンにはない未知、なまじ身近にあるからこそ凄みに圧倒される。
銀に縁取られたガラスの扉、みどりが裏側にエルシェルの紙を押し付けることで完成する。
「詠唱魔法は初めて見たか。そうかそうか、それは使った甲斐がある」
みどりは扉の前に回り込み、フードを取りはらった。
「なっな」
「とりあえず、だ。しばらくの住まいと食は保障する。それからはリストちゃんと相談するんだな」
では、と言いつつリビングへ入っていくみどりに反応できず、彼がもこもこ冬装備で固めたリストをおぶってくるまで、少女は石膏像と化していた。
少女が家を出ることを思い描いていたなら、二階などに妹を寝かせておくようなことは考えにくい。父親の妨害があるかもしれないのに、時間をかけるのは危険だと判断する。そうみどりは想像した。
「これから行くのは『霊峰』の頂、遅くなってしまったけど名前を聞いておこうか」
「……水崎テミスです」
みどりのねこだましで我にかえったテミスは、やや疲れた表情で名を明かすのだった。
「その服装だとテミスたちにはちょっと寒そうだし、帰ったら家を改築しないとね」
「え、そんな極寒」
「ではゴー!」
「聞いてください!」
扉を押した瞬間、白の世界に覆われ、あとにはエルシェル製の紙切れだけが廊下に落ちていた。
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「行きましたか」
「おい、行商人様の肩はどうだった⁉︎」
「こういうやつが粘着ストーカーになるんですよ、ほんと。でも、意外と細かったかも……」
彼女たちは
みどりに『様』をつける程度には忠誠心を持ち合わせている。それがいつ信仰に変わるかは分からないが……。
「かー!この役得め!」
「うわ触んないでくださいよおっさん、加齢臭がすごいんですから」
「おじさん悲しい。真っ先にこいつを取り押さえたのに」
縄で縛り上げた男を担ぐフードは肩を組もうとした少女に汚らしいものを払うようにしっしされるのが、いっそう心をえぐった。
場所は未明の河川敷。
闇に溶けるフードが一人、また一人と空から、虚空から
「まだトリトンは戻ってないんですか?」
「あれこそ粘着ストーカーの定形だろうに。どうせ若い尻でも追ってんじゃあねえか」
「……変態」
潔癖の少女は短く、端的におっさんを侮蔑する。
含意にはトリトンまで含まれていたが、本人がいないこの状況では被害が一人に集中する。
タバコを指鳴らし起こした火花で点火させ、おっさんの精悍な顔が浮き上がる。どこか泣きそうな顔だった。
「おい!なんだよこれ!」
そのとき、昏倒させられていた男が目を覚まし、頭を振って暴れ始めたので二人の雑談はここで終わった。
ここからは深層探索者の貌になる。
「うーむ、おまえさん。これからどうなるか想像つくか?」
「うわタバコくせ、顔を寄せんなやおっさん!」
「っぷぷ」
「嬢ちゃん、こんど尻叩きの刑な」
「嫌です。そうなる前に階層ごとあなたを溶かします」
「てかお前らなんなんだよ!あのクソッタレ餓鬼はどこ行った!」
男の大声が契機に、冬の夜はいっそう鋭さを増して男へ注がれる。
少女とおっさんも例外ではなく、特にタバコの光で顔が見えるおっさんはつまらなさそうに目線を外した。
「俺たちの前でよくあの人を罵倒できるな」
「知らないのも無理ありません。知らないまま自然に返してあげましょう、『鬼火』さん」
「嬢ちゃんのそれは『
男は喉元にナイフを突きつけられたような恐怖に、一言も発せず場の流れを見届けるしかない。
「あら、あの方に仇なすなら順当でしょう」
「こういうのを狂信者っていうんだぞ。いい加減自覚しろよ」
男は知っている。それゆえに震えて待つしかなかった。
『鬼火』夜を彷徨う怪火。しかし探索者の間では別の意味で用いられる。
怪火をもって夜を連れてくる深層探索者。
粛々とモンスターを飲み込んで、あとには何もなかったかのように昼だけが取り残される。
おっさんはため息をついて青火を巻き上げる。それだけで全てが終わった。少女も草原も焼かない炎は、男だけを灰燼へと変える。
叫び声もなにもなかった。そこにはもう、男の影も形もない。
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