禁断の実の呪い



バンコクの空は、熱帯特有の湿った曇天がゆらぎ、夕刻には焼けるような茜色が都市の喧騒に混じり合う。スクムビット通りを埋め尽くす車の列は、無数の蛍光色の電飾をまとい、行き交う旅人たちを照らしていた。その光景は、まるで古代の神殿が現代の迷宮と化したかのようで、どこか異様な静けさを内包している。


プラカノン駅近くの一角、ささやかなホテルの一室で、一家の夕食が終わろうとしていた。旅の疲れを知らない高校生の娘、陽子は窓際に腰掛け、外のにぎやかな通りを眺めている。


「ねぇ、お母さん。タイのフルーツ、もっと食べてみたいな」


母親は半ば眠たげな目をこすりながら答える。


「明日、ちゃんとした市場に行けばいいじゃない。今日はもう遅いから」


「今でもやってるよ、市場って。プラカノンの通りの先にあるらしいし、ちょっと行ってくるだけだから」


陽子の瞳は好奇心に満ちていた。異国の地に踏み入れる高揚感が、彼女の心に静かに火を灯している。しかし、その影には、誰も気づかない暗い運命の影が潜んでいた。


母親はため息をつきながらも、やがて許しの言葉を口にする。


「でも、あんまり遅くならないで。何かあったらすぐ電話してね」


陽子は軽快な足取りで部屋を飛び出していった。その背中には、バンコクの雑踏に染まりきれない純粋さと、未知への期待が宿っていた。

だが、彼女がプラカノン市場で目にするもの、そしてその先に訪れる出来事は、想像を超えた闇の深淵へと彼女を誘うことになる。誰もその運命を予測することはできなかった。



第1章:プラカノン市場の出会い


陽子がホテルを出ると、夜のバンコクは昼間とは別の顔を見せていた。湿った空気の中に漂う香辛料の香り、屋台の鉄板で踊る油の音、オートバイのけたたましいエンジン音。すべてが混ざり合い、彼女の感覚を刺激してくる。


プラカノン市場はスクムビット通りから少し奥へ入った場所にあった。通りに並ぶ露店は色鮮やかなフルーツで埋め尽くされている。ドリアンの濃厚な匂いに眉をひそめながら、陽子は熟れたマンゴーやランブータン、グァバを興味深げに眺めた。市場の賑やかな光景は、彼女に異国の活気を存分に味わわせた。


「これと、あとこれもください」


陽子はマンゴーとパッションフルーツを選び、小さな袋に入れてもらった。そのとき、ふと視線の端に奇妙な存在を捉えた。露店の列の外れに、一人の老婆が座っている。薄汚れた服に身を包み、手には見たことのない赤黒い果実を持っている。


老婆の瞳が陽子を見つめた。瞳はまるで漆黒の淵をたたえたようで、深く吸い込まれそうな不気味さを宿していた。


「これは、とても珍しい果物だよ。食べてごらん」


老婆はしゃがれた声で語りかけ、果実を差し出した。その果実は、深紅の皮に包まれ、つややかな表面がまるで血を塗ったように光っていた。


陽子は警戒しながらも、好奇心に抗えなかった。


「いくらですか?」


「お金はいらない。ただ、一口かじれば、それで十分さ」


老婆の笑みは広がり、しわだらけの顔に奇妙な光沢を生じさせた。陽子は恐る恐る果実を受け取り、小さく一口をかじった。


瞬間、口の中に広がったのは、人間の血を想起させるような鉄の味と甘美な香りだった。思わず顔をしかめると、老婆が声も立てずに笑っていた。その笑みは人間のものではないような異様なものだった。


「どうだい、美しい味だろう?」


老婆の言葉を聞いた陽子は、ふいに身体が重くなるのを感じた。目の前が霞み、霧の中をさまようような感覚が広がる。振り返ると、老婆の姿はどこにもなく、代わりにそこには古びた黄色い扇風機が佇んでいた。


扇風機は止まったまま、だが不気味な音を発していた。それは人の囁きのようにも、何かの呪文のようにも聞こえた。同時に、鼻を突くような腐臭が辺りを覆い始めた。


「な、何これ…?」


陽子は後ずさりしながら市場を出ようとしたが、身体は思うように動かず、足元がふらつく。とうとう耐えきれずに地面に倒れ込むと、世界は真っ暗になった。



第2章:廃病院の悪夢


気を失った陽子が目を覚ますと、そこは薄暗い廃墟のような場所だった。古びた壁にはひび割れが走り、天井からは錆びた鉄の鎖がぶら下がっている。どこからか滴り落ちる水音が静寂を裂くように響いていた。


彼女はベッドに横たえられ、四肢を拘束されていた。手足に巻かれた革のベルトは固く、身動きひとつ取ることができない。視界の端に見えるのは、不気味に揺れる黄色い扇風機だった。


「誰か…!助けて…!」


声を張り上げるが、返事はない。代わりに、どこからともなく濡れた手で身体を触られる感覚がした。それは生温かく、ぬめり気を伴い、異様な不快感をもたらした。


「何…これ…誰かいるの?」


そのとき、頭部に鋭い痛みが走った。次の瞬間、視界が真っ白になり、彼女の意識は再び深い闇へと沈んでいった。



第3章:消えた時間


陽子が再び目を覚ましたとき、目の前にはプラカノン市場の賑わいが広がっていた。彼女は市場の片隅で倒れていたらしく、周囲には誰もいない。ただ、目の前の露店の店主が不安そうに彼女を見つめている。


「大丈夫かい?どこか具合が悪いのか?」


陽子は声を出そうとしたが、喉が乾ききっていてうまく言葉が出てこない。それに、自分がここで何をしていたのか、まったく思い出せなかった。ただ、頭にかすかな違和感があり、手で触れると細い線状の傷があることに気づいた。


「どのくらいここにいたんですか…?」


陽子がかすれた声で問いかけると、店主は奇妙な顔をして答えた。


「君が倒れていたのを見つけたのは、ほんのさっきだよ。でも…君の顔、どこかで見た気がするんだよな」


陽子はその言葉に嫌な予感を覚えたが、深く追及する気力もなく、ふらふらと立ち上がった。辺りの景色は何もかもが見慣れないようで、違和感が募るばかりだった。


そして、ポケットの中に入っていたスマートフォンを見ると、画面に表示された日付に彼女の心臓は凍りついた。そこには「2028年12月25日」と書かれていた。


「そんな…!嘘でしょ…!」


陽子が最後に覚えているのは、2025年の年末、プラカノン市場で奇妙な老婆に出会った夜だ。3年間もの時間が、彼女の記憶から完全に抜け落ちていたのだ。



第4章:日常への帰還


陽子は家族の元に戻された。驚きと再会の喜びが交錯する中、3年間の空白は誰にも説明がつかなかった。警察の調査でも手がかりはなく、廃墟となった病院の情報も存在しなかった。陽子は自分の身に何が起きたのかを考えようとするたび、頭に激しい痛みが走った。


だが、彼女の日常は以前とどこか違っていた。

五感が異様に敏感になり、時折、視界の端にぼんやりと黄色い扇風機の影を捉えることがあった。食事をすると血のような味が混じることがあり、何もないはずの耳元で囁き声が聞こえることもあった。



第5章:クリスマスの悪夢


そんなある日、陽子は渋谷のスクランブル交差点に立っていた。冬の空気が冷たく、行き交う人々の喧騒に紛れる中、彼女は何とも言えない不安を感じていた。


その瞬間、どこからともなく男が現れた。サンタクロースの格好をしたその男は、手にナイフを持ち、無差別に人々を襲い始めた。悲鳴が交差点に響き渡り、陽子はその場に立ち尽くした。


「まただ…またあの扇風機の音がする…」


その男が意味不明な言葉を叫ぶたび、陽子の頭には、あの夜の老婆の笑い声が蘇った。目の前の光景と記憶が入り混じり、現実感を失いそうになる。


翌日、犯人は隅田川でサンタクロースの格好のまま水死体となって発見された。警察は男が叫んでいた言葉を「意味不明」と発表したが、陽子にはそれが何かの呪文であるように思えた。

そして、その言葉が自分の記憶の奥底に眠る何かと繋がっているような気がしてならなかった。



第6章:扇風機の正体


陽子は次第に、自分の身に起きた出来事の核心に迫ろうとする。2039年という未来、人類の進化を求める732部隊の実験、そして異次元の悪魔と呼ばれる存在。その鍵を握るのは、あの黄色い扇風機であり、彼女の中に埋め込まれたチップだった。


だが、その真実に触れるたび、陽子の中に潜む何かが覚醒し始めていた。



第7章:神人の覚醒


陽子は渋谷のサンタクロース事件以来、奇妙な夢を見るようになった。そこには巨大な扇風機がゆっくりと回る中、血のような赤い川が流れ、その川の中に無数の人間の顔が浮かんでいた。誰かの囁き声が絶えず耳元で響き、「お前は選ばれたのだ」と繰り返される。


ある夜、陽子は目が覚めると、自分が見知らぬ場所に立っていることに気づいた。それはタイの運河沿いの古びた施設だった。朽ちた建物の中に入り込むと、そこには無数の黄色い扇風機が並んでおり、それぞれが奇妙な光を放ちながら低い音を発していた。


建物の奥に進むと、壁に「2039」と赤い文字で書かれている部屋を見つけた。中には、床に埋め込まれた巨大なモニターがあり、その画面には無数の人々の顔が映し出されていた。その顔の中には、サンタクロース事件の犯人の姿もあった。


モニターの中央に現れたのは、かつてプラカノン市場で見た老婆だった。ただし、彼女の姿は次第に歪み、昆虫のような足と触角が生えた異形の姿へと変わっていった。


「私たちはお前たちを見守り、進化を導いてきた。しかし、人類は限界に達した。お前がその先を切り開く鍵となるのだ」


老婆はそう語ると、陽子の頭に強烈な痛みを与える音波を発した。陽子はその場に倒れ、意識を失った。



第8章:運河の水に潜むもの


目を覚ますと、陽子は運河のほとりに横たわっていた。夜明け前の薄暗い空に、何か巨大な影が動いているのが見えた。それは異次元の悪魔としか言いようのない存在だった。触手のようなものが運河の水面を撫でるたび、水は鮮やかな赤色に変わっていった。


「これが未来…2039年に待つ世界なの?」


陽子はそう呟いたが、言葉はすでに人間のものではないように響いた。気づかぬうちに、彼女の体は変異し始めていたのだ。指先は細長くなり、皮膚には無数の鱗のような模様が浮かび上がっていた。


運河から立ち上る蒸気の中で、陽子の視界に映ったのは、自分の顔が運河の水面に映る瞬間だった。そこには、かつての自分とは似ても似つかぬ「神人」のような姿が映っていた。



第9章:人類滅亡の序曲


陽子が自分の変化に戸惑う中、世界中で異変が起き始めていた。東京では連続殺人事件が相次ぎ、犯人たちは皆「黄色い扇風機を見た」と口にしていた。ニューヨークやロンドンでは、昆虫のような姿を持つ奇妙な人々が目撃され、やがてそれらの存在が「進化した人類」であると判明した。


2039年が近づくにつれ、陽子の中にある記憶の断片が次第に繋がっていった。732部隊による実験は、人類を新たな段階へ進化させるための計画であり、陽子はそのプロトタイプとして選ばれていたのだ。


だが、その「進化」が意味するものは、旧人類の絶滅と新たな神人の時代の到来だった。


第10章:メリークリスマス、そして黄昏


クリスマス・イブの夜、陽子は渋谷のスクランブル交差点に再び立っていた。交差点の巨大ビジョンには、黄色い扇風機の映像が流れ始め、人々はその映像に引き寄せられるように足を止めた。


その瞬間、空が裂けるような音とともに、異次元の悪魔が現れた。触手が空を切り裂き、無数の人々を次々と捕らえていく。その光景を目の当たりにしながら、陽子は心の中で囁き続ける声に従った。


「メリークリスマス…」


それは人類への別れの挨拶だったのか、それとも新たな時代の到来を祝福するものだったのかはわからない。ただ、陽子の中に残るのは、かつての家族と市場での記憶、そして不気味に微笑む老婆の顔だった。



終章:黄昏の中で


陽子が最後に見たのは、赤く染まる空と運河の水だった。彼女はすでに完全に人間ではなくなっていたが、その目にはかすかな涙が浮かんでいた。


「人類の未来がこれでいいのだろうか…?」


誰も答えることのできない問いを抱きながら、陽子はゆっくりと運河の水に身を沈めた。そして、その姿が消えた後、空に浮かんでいた黄色い扇風機もまた、音もなく消え去った。


物語の結末を知る者は誰もいない。ただ一つ確かなのは、その年のクリスマスが「黄昏の日」として記録され、未来永劫語り継がれることだった。








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