蜘蛛の糸が切れる夜:プラカノン運河の黄泉扇風機

第一章:プラカノン運河の闇

バンコクのプラカノン運河に日が沈みかける頃、その水面は不気味なほど静まり返っていた。都会の喧騒から逃れ、古びたボートに乗り込んだのは、タクシー運転手のカムラだった。彼は今夜、久しぶりに夜勤を終え、運河の向こうにある自宅へ帰ろうとしていた。

ボートの中にはカムラ一人きり。昔から住む人々が口々に「プラカノンの運河は夜になると何かが出る」と噂していたが、カムラはそんな話に耳を貸さなかった。古びたボートは低い唸りを上げ、緩やかに水を切りながら進んでいく。

「家に着いたら、すぐにシャワーを浴びて寝るか…」カムラはそう考えながらボートの揺れに身を任せていた。その時、ふと彼の目に不気味な光景が映った。運河の向こうに、一台の古びた黄色い扇風機が浮かんでいるのだ。

「なぜこんなところに扇風機が…」と、彼は思った。その扇風機は、あり得ないことに、水面に浮いているにも関わらず、動いていた。カムラは背筋が凍りつくのを感じた。まるで何かがこの世のものではない力で動かしているように見えた。

第二章:蜘蛛の糸

カムラは慌ててボートの速度を上げようとエンジンに手を伸ばしたが、ボートは突如として急停車した。エンジンは動いているにもかかわらず、何か見えない力がボートを引き止めているようだった。そして、その時、彼は足元に何かが動いているのに気づいた。

見ると、細く光る一本の糸がカムラの足に巻き付いていた。蜘蛛の糸のようなその光の糸は、どこか遠くから続いているようだった。カムラは恐怖に駆られ、その糸を引きちぎろうとしたが、糸は彼の手からするりと逃げてしまう。次第に糸は彼の体に絡みつき、引っ張るような感覚が増していった。

「誰か…助けてくれ…」と、カムラは思わず声を上げたが、運河は静まり返ったままだった。周囲には人の気配がなく、ただ彼と古い扇風機が不気味に回り続けているだけだった。

カムラは蜘蛛の糸に引きずられるように、意識を失い始めていた。

第三章:地獄の運河

目を覚ますと、カムラは運河の底にいた。そこはもはや現実のバンコクではなく、どこか異世界のような場所だった。彼の周囲には無数の亡者たちがのたうち回り、苦しんでいる。彼らの呻き声が絶え間なく響き渡り、運河の水は濃厚な闇に包まれていた。

「ここは…地獄か?」カムラは立ち上がり、辺りを見回した。彼の目に映ったのは、例の不気味な黄色い扇風機だった。それは今やカムラのすぐ近くにあり、変わらずに動き続けていた。

その時、彼の頭上から一本の光る糸が垂れ下がってきた。カムラはその糸を見上げ、どこかでこの光景を見たことがあるような気がした。そうだ、昔話だ。幼い頃に母から聞いた「蜘蛛の糸」の話だ。

「これは…助かるチャンスかもしれない…」カムラはそう考え、その蜘蛛の糸を掴んだ。彼は懸命に糸を掴んで、登り始めた。糸は細いが、しっかりとしていた。運河の闇から抜け出すために、必死に糸を登っていくカムラ。しかし、背後から何かが彼を引っ張る感覚があった。

振り返ると、亡者たちが次々と糸にしがみついていた。彼らもまた、助かろうと必死にカムラの後を追い始めていたのだ。

「俺だけが助かるんだ!」カムラは叫び、後ろに続く亡者たちを蹴り落とそうとした。その瞬間、蜘蛛の糸はプツリと音を立てて切れ、カムラは再び闇の中へと落ちていった。

第四章:運河の主

再び運河の底に落ちたカムラは、完全に絶望していた。彼の体は疲れ果て、もはや動けなかった。運河の水がゆっくりと彼の体を包み込み、次第に息ができなくなっていく。

その時、再びあの黄色い扇風機が目の前に現れた。扇風機はゆっくりとカムラの方に回転し、風を送ってくる。しかし、その風は冷たく、魂を凍えさせるような寒気を感じさせた。

「カムラ…」低く囁く声が聞こえた。それはまるで風そのものが彼に語りかけているようだった。「お前はもう助からない。ここはお前の居場所だ。」

カムラは声を振り払おうとしたが、その声は次第に強くなり、彼の心に侵入してきた。そして、ふと彼の体はまたも蜘蛛の糸に絡め取られ、再び闇の中に引き込まれていった。

第五章:救いの糸はどこに

カムラが目を覚ますと、再びボートの上に戻っていた。しかし、何かが違った。彼の周囲にはもう亡者たちはおらず、運河は静かに流れていた。ただ、あの不気味な黄色い扇風機だけが、変わらずにそこに存在していた。

「俺は…地獄から戻ったのか?」カムラは恐る恐る周囲を見回したが、何も答える者はいなかった。彼はボートを降り、自宅に向かおうとした。しかし、その足元に再びあの蜘蛛の糸が絡みついていたのだ。

カムラはその糸を見つめ、ただ一言呟いた。「これは、俺の糸だ…」

第六章:糸の運命

カムラはしばらくその場に立ち尽くしていた。蜘蛛の糸が彼の足元に絡みついているのをじっと見つめながら、彼は先ほどの恐ろしい体験を思い出していた。何度も助かろうとしたが、その度に糸は切れ、彼を闇に引きずり込んでいった。

「これは…俺だけのものだ」とカムラは再び呟いた。彼の胸の中で、何かが燃え上がるように広がっていく。かつての彼の悪行と自己中心的な欲望が、今また顔を出してきたのだ。

だが、突然彼は立ち止まった。カムラの目には、遠くからもう一台のボートがゆっくりと運河に近づいてくるのが見えた。そのボートには、他の人々が乗っているようだった。彼らは静かにカムラを見つめていた。

「助けてくれ!」と、カムラは叫び、手を振った。しかし、ボートの乗客たちは彼を無視するかのように、ゆっくりと通り過ぎていった。その時、カムラの胸の中に何かが崩れた。もはや他人に救いを求めることはできない、彼は再び孤独だった。

彼は最後の力を振り絞って、糸を掴み直した。「俺は自分の力で這い上がるんだ…誰にも頼らない!」そう心に決め、再び糸を必死に登り始めた。

第七章:最期の試練

カムラが糸を登っている間、不気味な風が運河全体に吹き荒れていた。空は次第に黒く染まり、周囲の景色が歪んで見えた。彼の心には、一度登り切れば、すべてが元通りになるという希望があった。だが、その思いは次第に薄れていった。

糸は彼を高く引き上げるように見えたが、何か見えない力が彼を地上から引き離そうとしていたのだ。再び、運河の水の中から亡者たちが現れ、彼にしがみつこうとしていた。

「またか…またこいつらか!」カムラは苛立ち、再び足元を蹴り払った。だが、彼の足に絡みついたのは、見覚えのある顔だった。彼の幼馴染で、かつて一緒に遊んだサコンだったのだ。

「カムラ…俺たちを忘れたのか?」と、サコンは苦しそうに呟いた。

「お前がここにいる理由なんか、俺には関係ない!」カムラは叫び、必死にサコンを蹴り落とそうとしたが、手が震えた。サコンだけではない、次々と懐かしい顔が現れ、彼に訴えかけてくる。

カムラの心は次第に揺らぎ始めた。「なぜ…お前らがここにいるんだ…俺は助かりたいんだ!」

「お前だけが救われることはない」と、サコンは低く囁いた。「俺たちはお前の過去の一部だ。」

カムラは耐え切れず、手を離してしまった。再び彼は糸から落ち、暗闇に包まれた運河の底へと戻っていった。

第八章:運河の黄泉

カムラが目を覚ました時、周囲は完全な闇に包まれていた。もう運河の水も、空も見えなくなっていた。彼の体は冷たく、まるで死んでしまったかのように感じた。だが、どこかでまだ心臓が鼓動を打っているのが分かった。

再び、不気味な風が吹き抜け、あの黄色い扇風機の羽音が聞こえてきた。扇風機は再び現れ、回転し続けていた。それはまるで、地獄の主が彼を見下ろしているかのように感じた。

「もう…終わりか?」カムラは呟いた。だが、その時、遠くからかすかな光が差し込んできた。彼はその光に向かって手を伸ばしたが、届かなかった。蜘蛛の糸はもう彼を助けてはくれなかった。

「俺は…助からないのか…」カムラは最後の力を振り絞って叫んだが、その声は運河の底で虚しく響くだけだった。

そして、再び闇が彼を飲み込んだ。

終章:残された者

カムラが運河から消えた後、その噂は街中に広まった。プラカノン運河では、夜になると奇妙な出来事が続発するようになったという。夜間にボートで通る者たちは、しばしば水面に浮かぶ不気味な黄色い扇風機を目にし、その風を受けると奇妙な声が聞こえると言われていた。

それはカムラの声だったのかもしれない。彼が助かろうとする最後の瞬間、誰にも気づかれず、忘れ去られてしまった叫びだったのかもしれない。

しかし、誰もその真相を知る者はいなかった。ただ一つだけ、確かなことがあった。それは、プラカノン運河の夜に現れるあの古い黄色い扇風機の不気味な存在が、決して消えることがないということだった。

そして、運河の闇は、今日も誰かを飲み込もうとしている。



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