バンコク・ハロウィン・キラー

第1部:ハロウィンの前夜

バンコクの喧騒が落ち着き始めた10月31日の夕暮れ時。プラカノン地区の運河沿いに建つ古びたアパートに、不気味な静けさが漂っていた。

タイ人と日本人のハーフである18歳のナリサ・タナカは、狭い一室で鏡に向かっていた。ハロウィンパーティーの準備に余念がない。窓の外では、運河の水面が夕日に照らされて揺らめいている。


部屋の隅には、黄ばんだ古い扇風機が置かれていた。その扇風機は、ナリサの祖母の遺品だった。羽根はゆっくりと回り、かすかに軋む音を立てている。その音が、運河の水音と奇妙に調和していた。ナリサはその音の組み合わせに慣れていたが、今夜はどことなく不気味に感じられた。


「ねえナリサ、早く準備終わらないの?」


親友のプラーイが部屋に顔を出した。彼女の声が、古いアパートの薄い壁を通して響いた。


「もうちょっと。この仮装、どう思う?」


ナリサは振り返り、魔女の衣装を見せた。


「最高!絶対モテるわよ」


プラーイは親指を立てて笑った。その瞬間、扇風機の回転が一瞬止まったかのように見えた。運河からの湿った風が窓を通して部屋に流れ込み、二人の肌に冷たく触れた。


「あの扇風機、まだ動いてるの?気味悪い」

プラーイが顔をしかめた。


「祖母の形見なの。捨てられないのよ」


ナリサは少し寂しそうに答えた。その言葉が、古いアパートの壁に吸い込まれていくようだった。


二人は大学の友人たちとボロマラチャチャノニ通りの繁華街でハロウィンパーティーを楽しむ予定だった。窓の外では、運河の向こうに広がるバンコクの街並みが、夜の帳に包まれ始めていた。


第2部:精神病院からの脱走


その頃、ボロマラチャチャノニ通りにある精神病院では緊張が走っていた。


「チャルーン医師!大変です!」


看護師のソムチャイが血相を変えて駆け込んできた。


「どうした?」


チャルーン・ウィチェンチャイ医師は、落ち着いた様子で尋ねた。


「15年前の日本人殺人鬼が…逃げ出しました!」


チャルーンの表情が一瞬凍りついた。


15年前、ボロマラチャチャノニ通りを震撼させた凄惨な事件。28歳の日本人男性が理由もなく数人を殺害し、精神病院に収容された。その男の名は、田中健太郎。


「警察に連絡しろ。私も現場に向かう」

チャルーンは重々しく言った。15年間、彼は田中の担当医だった。


第3部:ハロウィンの夜


一方、ナリサたちは賑わうエカマイ通りを歩いていた。仮装した若者たちで溢れかえっている。


「ねえ、あのお化け屋敷行ってみない?」

友人のノックが指差した先には、古びた洋館があった。


「怖そう…でも行ってみる?」

ナリサは少し躊躇しながらも、興味を示した。


一行は洋館に入った。暗闇の中、あちこちから奇妙な音が聞こえてくる。


「キャー!」

突然、何かが足に触れ、プラーイが悲鳴を上げた。


「大丈夫?ただの小道具よ」

ナリサが友人を慰めた。


しかし、その時だった。ナリサは、一瞬だけ不自然な人影を見た気がした。夜叉の仮面をつけた大柄な男。だが、目を凝らすと、そこには何もなかった。


「気のせいかな…」

ナリサは首を傾げた。


お化け屋敷を出た一行。その後ろ姿を、夜叉の仮面の男が静かに見つめていた。


第4部:惨劇の始まり


夜が更けるにつれ、街はさらに活気づいていった。若者たちは酒に酔い、音楽に身を委ねる。


「ナリサ、トイレ行ってくる」

プラーイが叫んだ。


「気をつけてね」


プラーイは人混みをかき分け、近くの路地裏に向かった。そこには簡易トイレが設置されていた。


トイレを済ませ、プラーイが外に出ると、そこには誰もいなかった。不気味な静けさだけが漂う。


「誰か…いるの?」

プラーイの声が震えた。


突然、背後から大きな手が伸びてきた。悲鳴を上げる間もなく、プラーイは闇に飲み込まれた。


30分が経過した。


「プラーイ、どうしたんだろう」

ナリサは心配そうに言った。


「探しに行こうよ」

ノックが提案した。


三人は路地裏に向かった。そこで目にしたものは、凄惨な光景だった。


血まみれで倒れているプラーイ。その傍らには、夜叉の仮面をつけた大柄な男が立っていた。


「逃げて!」

ナリサは叫んだ。


三人は必死に走った。しかし、ノックは転んでしまう。


「行け!俺が食い止める!」

ノックは叫んだ。


ナリサは涙を流しながら走り続けた。背後では、ノックの悲鳴が聞こえた。


第5部:追跡


必死に逃げる中、ナリサは見覚えのある路地に迷い込んだ。そこには、古い家電店があった。ショーウィンドウには、黄ばんだ扇風機が並んでいる。その中の一台が、ナリサの部屋にあるものと瓜二つだった。


「まさか...」


ナリサは足を止めた。扇風機の羽根がゆっくりと回り始める。その動きに合わせるように、夜叉の仮面の男が姿を現した。


ナリサは再び走り出した。どこに逃げればいいのか分からない。


突然、誰かに腕を掴まれた。


「キャー!」


「大丈夫だ、警察だ」

制服姿の男性が言った。


「助けて…友達が…」

ナリサは泣きじゃくった。


「落ち着いて。君を安全な場所に連れて行く」


警察官はナリサをパトカーに乗せた。しかし、車内には誰もいない。


「他の警官は?」

ナリサが尋ねた。


警察官は黙ったまま運転を始めた。その時、バックミラーに映ったものにナリサは凍りついた。


運転席の警察官が、夜叉の仮面をつけていた。


「いやーっ!」

ナリサは叫び、ドアを開けて飛び出した。


第6部:対決


再び逃走が始まった。ナリサは人混みの中を必死に走る。しかし、夜叉の仮面の男は執拗に追いかけてくる。


そして、ついに行き止まりに追い詰められた。


「お願い…殺さないで…」

ナリサは震える声で懇願した。


夜叉の仮面の男は、ゆっくりとナイフを振り上げた。


その瞬間。


「田中!止まれ!」

チャルーン医師の声が響いた。


田中は一瞬躊躇した。


「もう十分だ。もう誰も傷つける必要はない」

チャルーンは静かに語りかけた。


田中はゆっくりとナイフを下ろした。そして、初めて口を開いた。


「なぜ…俺は…」

かすれた声だった。


「君は病気なんだ。でも、治療すれば…」


その時だった。田中が突然、チャルーンに襲いかかった。


「ドクター!」

ナリサは叫んだ。


混乱の中、ナリサは咄嗟にそばにあった鉄パイプを手に取り、田中の頭を強打した。


田中は崩れるように倒れた。


「大丈夫ですか?」

ナリサはチャルーンに駆け寄った。


「ああ…ありがとう」

チャルーンは苦しそうに答えた。


その後、警察が到着し、田中は再び拘束された。


第7部:真相


数日後、病院のベッドで目覚めたナリサ。そこにはチャルーン医師の姿があった。


「よく眠れましたか?」

チャルーンは優しく尋ねた。


「はい...でも、悪夢を見ました。黄色い扇風機の夢...」

ナリサは震える声で答えた。


チャルーンは少し驚いた表情を見せた。


「黄色い扇風機?」


「はい。祖母の遺品なんです。でも、あの夜、街中でも同じ扇風機を見たんです」


チャルーンは沈黙した後、静かに語り始めた。


「実は...田中が最初の殺人を犯した時、現場に黄色い扇風機があったんです。それ以来、田中はその扇風機に異常な執着を示していました」


ナリサは息を呑んだ。


「つまり、祖母の扇風機は...」


「おそらく、事件現場にあったものです。田中はそれを追って、あなたを見つけたのかもしれません」


「でも…なぜ私が狙われたんですか?」


チャルーンは少し躊躇した後、静かに語り始めた。


「実は…田中の最初の被害者は、あなたの母親だったんです」


ナリサは息を呑んだ。


「つまり、田中はあなたの母親を殺した犯人…彼は15年前、あなたの母親を含む数人を殺したんです」


「でも…なぜ?」


「それは誰にも分かりません。彼の心の闇は、あまりにも深すぎる…」


エピローグ


窓の外では、バンコクの喧騒が聞こえていた。ハロウィンの夜の悪夢は去ったが、ナリサの心に深い傷を残した。


そして、精神病院の一室。田中は再び沈黙を守っていた。しかし、その目は何かを企んでいるかのように、不気味に光っていた。部屋の隅には、黄ばんだ古い扇風機が置かれていた。その羽根は、誰も触れていないのに、ゆっくりと回り始めていた。


完全な終わりは、まだ来ていなかった。

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