黄昏に囁く呪いの扇風機
暗闇が忍び寄る夕暮れ時、佐々木剛は大河原家の古びた屋敷の前に立っていた。プラカノン地区の喧騒が遠ざかり、不吉な静寂が彼を包み込む。大河原家が日本に帰国した今、この屋敷を整理する任務は彼に託された。
扉が軋む音を立てて開く。佐々木は懐中電灯を取り出し、薄暗い内部に光を投げかける。埃まみれの家具や、くすんだ壁紙が彼を出迎えるが、何かが異常だ。彼の背筋を震わせる奇妙な感覚が走る。誰かに見られている...その感覚が、息を飲むほど強烈に襲いかかる。
「ソムチャイさん?」佐々木は呼びかけるが、返事はない。タイ人の管理人は今夜来られないはずだった。しかし、佐々木の足音が吸い込まれる静寂の中で、何かの気配が薄闇の中に潜んでいるようだ。
部屋から部屋へと進むうち、佐々木の目に奇妙な物体が飛び込んでくる。それは、埃をかぶった黄色い扇風機。塗装は剥げ落ち、歪んだ羽根が不気味な形をしている。その存在が、この屋敷の何かを警告しているようだった。
彼は手を伸ばし、好奇心に駆られるままスイッチを押した。カチリと音を立て、羽根が回り始める。しかし、その瞬間、扇風機から吹き出す風は異様な冷気を帯び、空気に奇怪な囁きが混ざり始めた。
突然、部屋の空気が濁り、視界が霞む。影が蠢き、何かが形を取り始める。やがてそれは一人の女性の姿となる。彼女の長い黒髪が揺れ、哀しげな目が佐々木を見つめている。それは、大河原英樹の最初の妻、ナンティダだった。
「許せない…けれど、愛している」
かすかな声が佐々木の耳に届く。彼の身体は凍りつき、逃げようとしたが、足は動かない。ナンティダの霊が彼に迫り、その手が佐々木の肩に触れた瞬間、彼の心に押し寄せたのは激しい哀しみと怒りだった。
「何を望んでいるんだ?」佐々木は震えながら問いかけた。
「真実を...知ってほしい」ナンティダは冷たい囁きで言った。「この扇風機がすべての始まり...そして、終わりでもある」
ナンティダは彼に過去の一部始終を見せ始めた。英樹との結婚、浮気、裏切り、そして彼女の絶望。英樹が日本人の美奈子と関係を持ち、その結果、彼女の怒りと嫉妬が生み出したのは…恐るべき呪いだった。ナンティダは、自らの命を絶ち、この呪われた扇風機に自分の憎しみを封じ込めたのだ。
「誰かが呪いを解かなければ、すべてが終わらない...」
風が再び激しさを増し、扇風機が異常なほどのスピードで回転し始めた。床が揺れ、壁が軋み、部屋全体が崩壊しそうな勢いだ。ナンティダの霊は狂気に満ちた笑みを浮かべ、佐々木に近づいてくる。
「止めろ!俺を巻き込むな!」
しかし、その叫びも虚しく、冷気は彼の体を包み込んでいく。佐々木は目の前が真っ暗になり、足元がふと軽くなった気がした。目を覚ますと、彼は知らない場所に立っていた。四方を黒い霧が包む中、ナンティダの姿がゆっくりと現れた。
「あなたは選ばれたの。私の物語を終わらせるために」
佐々木は理解した。呪いを解くには、自らが犠牲となるしかないのだ。彼は扇風機を止めるために身を投じる決意を固めた。だが、その瞬間、異変が起きた。
ナンティダは突然、苦しみ出し、まるで何かに引き裂かれるかのように姿が消えた。扇風機が一瞬静かになり、彼の前にもう一つの姿が現れた。それは...大河原英樹だった。
「すまない、佐々木くん」
英樹は佐々木に手を差し伸べる。
「私がすべてを終わらせる。ナンティダを解放し、君を救うために」
英樹が扇風機に手をかざすと、激しい稲妻が部屋中に走り、扇風機は一瞬で破壊された。ナンティダの霊は安らかに眠りにつき、佐々木はようやく解放された。
翌日、佐々木とソムチャイは扇風機の残骸を庭に埋め、ナンティダのために花を手向けた。佐々木はこの出来事が終わりを告げたことを感じていた。
だが、彼の心には一つの疑念が残る。風が吹くたび、あの囁きが聞こえる気がしてならない。「すべては終わっていない」と。
風が吹く。
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