バンコク怪奇譚10 運河の影:バンコクの夜に消えた女2
高橋彩音は、タイのバンコク郊外にあるプラカノン地区の古びたアパートの一室で目を覚ました。日本の大学を卒業してすぐ、タイ語学校に通うために来たバンコクでの生活も、早いもので3ヶ月が経っていた。
窓から差し込む強烈な日差しに目を細めながら、彩音は起き上がった。そして、部屋の隅に置かれた古い黄色い扇風機に目が留まった。その扇風機は、彩音がこのアパートに引っ越してきた時から置いてあったもので、不思議と捨てられずにいた。
しかし、今朝はなぜか、その扇風機が特別に不気味に感じられた。彩音は首を振り、そんな考えを払拭しようとした。
「気のせいよ」と自分に言い聞かせ、彩音は朝の準備を始めた。
その日の午後、彩音は語学学校からの帰り道、近所のコンビニに立ち寄った。レジに並んでいると、後ろから日本語が聞こえてきた。
「え?まさか日本人?」
振り返ると、20代後半くらいの日本人女性が立っていた。
「はい、そうです」彩音は微笑んで答えた。
「わー、珍しい!私、山田友美っていいます。こっちに来て2年になるんです」
彩音は友美と意気投合し、その場で連絡先を交換した。
数日後、友美から連絡があり、近くのカフェで待ち合わせることになった。カフェでおしゃべりを楽しむ中、友美が突然、真剣な表情になった。
「彩音さん、プラカノンに住んでるんですよね?」
彩音が頷くと、友美は声を潜めて続けた。
「気をつけてください。最近、プラカノンで日本人女性が失踪するという噂があるんです」
彩音は驚いて目を丸くした。「え?本当ですか?」
友美は頷いた。「詳しいことはわからないんですけど、みんな若い女性で、一人暮らしだったらしいです。それに…」友美は躊躇したが、続けた。「黄色い扇風機が関係しているという噂もあるんです」
彩音は背筋が凍る思いがした。自分の部屋にある黄色い扇風機が頭をよぎる。
「た、たぶん、ただの噂でしょう」彩音は強がって言ったが、心の中では不安が渦巻いていた。
その夜、彩音は落ち着かない気持ちで自室に戻った。部屋に入るなり、黄色い扇風機に目が行く。今までは気にも留めていなかったのに、今は不気味さしか感じられない。
彩音は扇風機から目を逸らし、シャワーを浴びに行った。湯気の立つ浴室で体を洗いながら、彩音は友美の言葉を思い返していた。
突然、シャワーの音に紛れて、かすかな機械音が聞こえた。彩音は耳を澄ませる。確かに何かが動いている音がする。心臓が高鳴り、彩音は恐る恐るシャワーを止めた。
静寂の中、はっきりと聞こえてきたのは、扇風機の回る音だった。
「え?」
彩音は混乱した。確かに部屋を出る時、扇風機のスイッチは切ってあったはずだ。
おそるおそる浴室を出ると、黄色い扇風機がゆっくりと回っていた。彩音は震える手でスイッチを切った。扇風機は止まったが、彩音の不安は増すばかりだった。
その夜、彩音は悪夢にうなされた。夢の中で、黄色い扇風機が巨大化し、彩音を追いかけてくる。彩音が必死に逃げても、扇風機はどこまでも追ってくる。そして、ついに追いつかれた瞬間、彩音は冷や汗をかいて目を覚ました。
朝日が差し込む部屋で、彩音は昨夜の出来事を思い出した。扇風機は相変わらず部屋の隅に置かれ、動く気配はない。
「やっぱり気のせいだったのかな…」
彩音はそう思いたかったが、どこか釈然としない気持ちが残っていた。
その日、彩音は語学学校で友美と会った。友美は彩音の顔色の悪さに気づき、心配そうに尋ねた。
「大丈夫?何かあったの?」
彩音は昨夜の出来事を友美に打ち明けた。友美は真剣な表情で聞いていたが、彩音が話し終えると、突然立ち上がった。
「彩音さん、今すぐそのアパートを出た方がいいわ」
彩音は驚いて友美を見上げた。「え?でも…」
友美は彩音の腕を掴んだ。「私、実は警察に協力して、この事件の調査をしてるの。そして、その黄色い扇風機が鍵になると思うんです」
彩音は困惑した。「警察?どういうこと?」
友美は周りを見回してから、小声で説明を始めた。
「実は、私の妹も2年前に失踪したの。プラカノンで。そして、彼女の部屋にも黄色い扇風機があったんです」
彩音は息を呑んだ。友美は続けた。
「警察は最初、単なる失踪事件として扱っていたけど、私が調べていくうちに、同じようなパターンの事件が複数あることがわかったの。そして、すべての被害者の部屋に、同じような黄色い扇風機があった」
彩音は震える声で尋ねた。「じゃあ、あの扇風機は…」
友美は頷いた。「ええ、おそらく犯人の印なんです。だから、今すぐ荷物をまとめて、そのアパートを出るべきよ」
彩音は友美の言葉に従い、その日のうちに荷物をまとめ始めた。しかし、部屋に戻ると、黄色い扇風機が無くなっていた。
パニックに陥った彩音は、すぐに友美に連絡を取った。友美は警察と一緒に駆けつけたが、部屋からは何の手がかりも見つからなかった。
その夜、彩音は友美の家に泊まることになった。二人で事件について話し合っていると、突然、友美のアパートの電気が消えた。
真っ暗な中、かすかな機械音が聞こえてきた。彩音と友美は息を潜めて耳を澄ませる。その音は、どこかで聞いたことのある音だった。
そして、月明かりに照らされた窓際に、黄色い扇風機の影が浮かび上がった。
彩音と友美は悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。扇風機の羽根が回り始め、その風は徐々に強くなっていった。二人は必死に逃げようとするが、体が動かない。
風は渦を巻き始め、彩音と友美の体が宙に浮く。二人は恐怖に満ちた目で互いを見つめ合った。そして、渦は二人を飲み込み、黄色い扇風機とともに消えていった。
翌朝、警察が友美のアパートを訪れたが、そこにいたのは古びた黄色い扇風機だけだった。扇風機はゆっくりと回り続け、新たな犠牲者を待っているかのようだった。
プラカノンの街に、また新たな噂が広まり始めた。若い日本人女性二人が姿を消したという噂を。そして、黄色い扇風機を見たら要注意だという警告を。
しかし、その噂を聞いても、多くの人々はただの都市伝説だと笑い飛ばすだけだった。彼らには、あの黄色い扇風機の本当の恐ろしさがわからないのだ。
そして、プラカノンの古いアパートの一室で、黄色い扇風機がまた新たな住人を待っている。その羽根は、次の犠牲者を求めてゆっくりと、しかし確実に回り続けていた。
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