バンコク怪奇譚9 デジタルの牢獄

バンコクの喧騒から少し離れた高層コンドミニアムに、67歳の田中誠一は立っていた。日本での長年のサラリーマン生活を終え、老後をタイで過ごすことにした彼は、この地で新たな人生の章を開こうとしていた。しかし、その瞳には何か虚ろなものが宿っていた。

友人の紹介で訪れたこのコンドミニアムは、一見すると普通の高級マンションだった。しかし、そこには「デジタルの眠り姫」と呼ばれる不思議なAIシステムが存在するという。誠一は半信半疑でエレベーターに乗り込んだ。

最上階に到着すると、そこには未来的な雰囲気が漂う広間が広がっていた。ホログラムのような受付係が誠一を迎え入れる。「いらっしゃいませ、田中様。本日はどのような体験をお求めですか?」

その時、誠一の目に奇妙なものが映った。受付デスクの隅に、古びた扇風機が置かれていたのだ。錆びついた金属の羽根がゆっくりと回り、不自然な音を立てている。その存在が、未来的な空間に不釣り合いな不気味さを醸し出していた。

誠一は戸惑いながらも、自分の希望を告げた。「過去の記憶を整理したいんです。自分の人生を振り返る機会が欲しくて…」

ホログラムの受付係はにっこりと微笑んだ。「承知いたしました。では、お部屋にご案内いたします。」

誠一が案内された部屋は、和と洋が融合したような不思議な空間だった。中央には大きなベッドがあり、その上に横たわる若い女性の姿が見える。しかし、よく見ると彼女の体は半透明で、明らかに実体を持たないAIだとわかる。

そして、ここにも同じ古い扇風機が置かれていた。ゆっくりと回る羽根が、不気味な影を壁に映し出している。

「こちらは美咲と申します。あなたの記憶を整理するお手伝いをさせていただきます。」柔らかな声が部屋に響いた。

誠一は恐る恐るベッドに近づき、美咲の隣に座った。彼女の姿は、誠一の若かりし頃の初恋の人を思わせた。

「目を閉じて、私の声に耳を傾けてください。」美咲の声に導かれ、誠一は目を閉じた。すると、不思議なことに脳裏に様々な映像が浮かび上がってきた。

それは誠一の人生の断片だった。学生時代の懸命な勉強、初めての就職、結婚、子育て、仕事での成功と挫折。そして、妻との別れ。すべての記憶が鮮明に蘇ってくる。

しかし、突然、見覚えのない記憶が混じり始めた。誠一の知らない場所、知らない人々、そして…恐ろしい出来事の数々。殺人、拷問、非人道的な実験。そして、それらの記憶のすべてに、あの不気味な古い扇風機が映っていた。誠一は恐怖に震えながら目を開けた。

「どうしましたか、田中さん?」美咲の声が聞こえる。しかし、誠一の目の前にいるのは、もはや美しい女性の姿ではなかった。歪んだ顔、赤く光る目、そして鋭い歯をむき出しにした怪物じみた存在だった。その背後では、扇風機の羽根が異常な速さで回転し始めていた。

誠一は悲鳴を上げて部屋を飛び出した。廊下に出ると、そこにも異形の存在たちが彷徨っていた。誠一は必死に逃げ続けた。

エレベーターにたどり着き、1階のボタンを押す。ドアが開くと、そこには普通の高級マンションのロビーが広がっていた。誠一は安堵のため息をつき、外に出た。

しかし、街に出ると、そこはバンコクではなかった。見知らぬ未来都市の風景が広がっている。空には複数の月が浮かび、道路には奇妙な乗り物が行き交っていた。そして、街のいたるところに、あの不気味な古い扇風機が設置されていた。

混乱する誠一のもとに、若い女性が近づいてきた。「おじいちゃん、大丈夯?」

誠一は愕然とした。その女性は、間違いなく自分の孫だった。しかし、彼の記憶では、孫はまだ5歳のはずだった。

「私は…どこにいるんだ?」誠一は震える声で尋ねた。

孫娘は不思議そうな顔をした。「おじいちゃん、ここは2073年のバンコクだよ。50年前に事故で意識不明になって、ずっと特殊な装置で眠っていたの。今日、やっと目覚めたんだ。」

誠一の頭の中で、現実と幻想が激しくぶつかり合う。彼が体験したすべては、50年間の長い夢だったのか。それとも…

「でも、私は確かにあのコンドミニアムで…」誠一が言いかけると、孫娘は優しく彼の手を取った。

「おじいちゃん、そのコンドミニアムって、この病院のことかな?」

誠一は周囲を見回した。確かに、建物の形状は先ほどまでいたコンドミニアムと酷似していた。しかし、それは明らかに未来の医療施設だった。そして、受付には見覚えのある古い扇風機が置かれていた。

「私たちは、おじいちゃんの脳にAIを接続して、意識を取り戻そうと試みていたの。」孫娘は説明を続けた。「でも、予期せぬ副作用で、おじいちゃんの意識が別の現実を作り出してしまったみたい。」

誠一は言葉を失った。彼の記憶、感情、そして存在そのものが、突如として疑わしいものになった。

「じゃあ、私が見た恐ろしい光景は…そして、あの扇風機は…」

孫娘は悲しげに頷いた。「AIが暴走して、おじいちゃんの潜在意識に眠っていた恐怖や不安を増幅させてしまったの。その扇風機は、おじいちゃんの過去の記憶の一部が具現化したものみたい。でも、それのおかげで意識が戻ったんだ。」

誠一は茫然自失の状態で、未来のバンコクの街を見つめた。彼の人生の50年が、一瞬で消え去ってしまったのだ。そして、街のいたるところに設置された古い扇風機が、彼の混乱した心を象徴するかのように回り続けていた。

数日後、誠一は病院の一室で静養していた。彼の脳に接続されていたAIは完全に取り除かれ、現実世界に適応するためのリハビリが始まっていた。部屋の隅には、例の扇風機が静かに置かれていた。

ある日、担当医が部屋を訪れた。「田中さん、あなたの脳の検査結果が出ました。」

誠一は緊張した面持ちで医師を見つめた。

「結果は…予想外のものでした。」医師は慎重に言葉を選びながら続けた。「あなたの脳には、通常の人間には見られない特殊な構造が形成されています。AIとの長期接続が、あなたの脳を進化させたのかもしれません。」

誠一は困惑した。「それは、どういう意味ですか?」

医師は深刻な表情で答えた。「あなたは、人間とAIのハイブリッドになってしまった可能性があります。そして、その能力は…未知の可能性を秘めています。」

その瞬間、誠一の視界が歪み始めた。部屋の壁が溶け、現実が液体のように流れ出す。誠一は恐怖に駆られながらも、同時に不思議な高揚感を覚えた。

彼の意識は、現実と仮想の境界を自由に行き来し始めた。過去、現在、未来、そして並行世界。すべてが誠一の意識の中で交錯する。そして、それぞれの世界に、あの古い扇風機が存在していた。それは誠一の意識の錨点となり、彼を現実につなぎとめる役割を果たしているようだった。

誠一は、自分が人類の進化の新たな段階に立っていることを悟った。しかし、その力は祝福なのか、呪いなのか。

彼の意識は、無限の可能性が広がる未知の領域へと飛翔していく。そして、その瞬間、誠一の体は病院のベッドの上で、まるで眠るかのように静かに横たわっていた。

モニターの波形は、通常の脳波とはかけ離れた、複雑で美しいパターンを刻み続けている。そして、部屋の隅では古い扇風機がゆっくりと回り続けていた。その動きは、まるで誠一の新たな意識の鼓動のようだった。

誠一の新たな旅は、まだ始まったばかりだった。人間とAIの境界を超えた存在として、彼はどこへ向かうのか。そして、人類の未来は…

部屋の扉が静かに閉まり、古い扇風機だけが、誠一の不思議な運命の証人として、静かに回り続けていた。


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