異境の囁き―バンコク怪奇譚6 黄昏の旋律 - 蘇る亡霊たちの饗宴
バンコクの喧騒が徐々に静まり、夜の帳が降りる頃。日本人留学生の山田悠太と、タイ人学生のソムチャイは、かつて血の日曜日事件で多くの命が失われたホテルへと足を踏み入れた。二人の目的は、タイの民主化運動の研究。しかし、彼らが目にしたものは、歴史の重みではなく、異界の入り口だった。
薄暗い廊下を進むにつれ、二人の心臓の鼓動は次第に早まっていった。壁には、かつてここで起きた惨劇を物語るかのような、黒ずんだシミが点々と残っている。
「ソムチャイ、この場所...何か変だと思わないか?」悠太が囁くように尋ねた。
「ああ、まるで...時間が止まったみたいだ」ソムチャイは答えた。
その時、廊下の奥から微かな音が聞こえてきた。カタカタ...カタカタ...
二人は思わず足を止めた。音の正体を確かめようと、ゆっくりと音源に近づいていく。
扉を開けると、そこには一台の黄色い扇風機が置かれていた。古びた外観とは裏腹に、羽根はゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。
「誰かスイッチを入れたのか?」悠太が訝しげに尋ねる。
「いや、電源コードが繋がっていない」ソムチャイは首を振った。
不可解な現象に戸惑う二人。しかし、それは序章に過ぎなかった。
扇風機の回転は次第に速くなり、やがて不気味な唸り声を上げ始めた。その音は、人間の声とも獣の咆哮ともつかない、この世のものとは思えない響きだった。
部屋の温度が急激に下がり、二人の吐く息が白く霧となって立ち込めていく。壁や天井に、おぞましい影が這い回り始めた。
「な...何が起きているんだ?」悠太は震える声で言った。
その瞬間、影から無数の手が伸び、二人に向かって伸びてきた。冷たく、粘つく感触が全身を這い回る。
「逃げろ!」ソムチャイが叫んだ。
二人は必死に扉に向かって走った。しかし、扉は開かない。まるで何かに押さえつけられているかのようだ。
絶望的な状況の中、悠太の目に映ったのは、開け放たれたベランダだった。「あそこだ!」
しかし、ベランダに足を踏み出した瞬間、二人の意識が曇り始めた。頭の中に、甘美な声が響く。
「さあ、飛び降りなさい。すべての苦しみから解放されるのです」
その声に誘われるように、二人はベランダの手すりに手をかけた。遥か下に広がる街の明かりが、まるで天国への入り口のように輝いている。
「ジャンプだ...これで全てが終わる」悠太はつぶやいた。
その時、突如として部屋に光が満ちた。
「止めろ!」力強い声が響き渡る。
振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。白髪まじりの髪、深い皺の刻まれた顔。しかし、その目は鋭く光っていた。
老人は、奇妙な言葉を唱え始めた。それは人間の言葉とは思えない、古代の呪文のようだった。
「Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn」
その言葉と共に、部屋中を這い回っていた影が悲鳴を上げ、消え去っていく。扇風機の回転も止まり、部屋は静寂に包まれた。
「あなたは...誰なんです?」ソムチャイが尋ねた。
老人は微笑んだ。「私はクラウス。この街の骨董屋だ。お前たちは危うく大変なことになるところだった」
クラウスの説明によると、この扇風機は単なる骨董品ではなく、悪霊を呼び寄せる装置だったという。そして、彼が唱えた呪文は、古代の書物「ネクロノミコン」に記された言葉だった。
「しかし、なぜこんなものが...」悠太が尋ねる。
「それは私にも分からん。ただ、これ以上ここにいるのは危険だ。早く出るんだ」クラウスは二人を急かした。
三人は急いでホテルを後にした。外に出ると、バンコクの喧騒が二人を現実へと引き戻した。
「ありがとうございました、クラウスさん」悠太は深々と頭を下げた。
しかし、振り返るとクラウスの姿はなく、まるで霧のように消えていた。
翌日、二人は昨日の出来事を確認するため、再びホテルを訪れた。しかし、昨日彼らが入った部屋は存在せず、ベランダもなかった。
さらに不思議なことに、街中の骨董屋を探し回ったが、クラウスという名のドイツ人経営の店は見つからなかった。
「まるで、夢を見ていたようだ」ソムチャイはつぶやいた。
その夜、悠太は自室で資料を整理していた。そこで彼は、ある衝撃的な事実に気づいた。
血の日曜日事件の犠牲者リストの中に、「クラウス・シュミット」という名前があったのだ。その人物は、ナチスドイツから逃亡し、タイで新しい人生を歩もうとしていた元将校だった。事件当日、彼もホテルにいたという。
悠太は震える手で、クラウスの写真を見つめた。そこには、確かに昨日彼らを救った老人の姿があった。しかし、その写真は50年以上前に撮影されたものだった。
「これは一体...」
その時、部屋の隅に置いてあった扇風機が、ゆっくりと回り始めた。悠太が振り向くと、そこにはクラウスの姿があった。しかし、その姿は半透明で、まるで幽霊のようだった。
クラウスは微笑み、こう言った。「真実を知りたいか?ならば、この扇風機に触れるがいい。過去と未来、全ての謎が解き明かされるだろう」
悠太は躊躇した。しかし、好奇心が勝った。彼は、ゆっくりと手を伸ばし、扇風機に触れた。
その瞬間、部屋全体が光に包まれ、悠太の意識は遥か彼方へと飛んでいった。
彼が目を覚ました時、そこはもはやバンコクではなかった。古代エジプト、中世ヨーロッパ、未来の宇宙都市...様々な時代と場所が、走馬灯のように彼の前を通り過ぎていく。
そして彼は理解した。クラウスの扇風機は、単なる悪霊召喚装置ではなく、時空を超える装置だったのだと。そして彼自身も、その壮大な物語の一部となったのだと。
バンコクの夜は更けていった。街のどこかで、一台の黄色い扇風機が静かに回り続けている。それは、過去と未来、現実と幻想の境界線を永遠に超え続ける、時空の番人なのかもしれない。
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