異境の囁き―バンコク怪奇譚4 禁断の扇風機

バンコクの喧騒から離れた路地裏に、一軒の古道具屋がひっそりと佇んでいた。看板も出ていない、名もなき店。しかし、その扉を開ける者は、単なる骨董品以上のものを求めてやって来るのだ。


店の奥に座る老人は、かつてナチスの秘密結社に所属していたクラウス・シュミットだった。第二次世界大戦後、多くの仲間たちがニュルンベルク裁判にかけられる中、彼はひとり東へと逃亡。そしてついに、この混沌としたアジアの街に辿り着いたのだ。


クラウスは、ナチスが追い求めていた究極の力を手に入れるため、ひそかに研究を続けていた。その鍵となるのが、彼が作り上げた特殊な扇風機だった。一見すると古びた扇風機に過ぎないその品は、実は悪魔を召喚する装置だったのである。


ある湿り気の強い夜のこと、店の扉が開いた。入ってきたのは、中年の日本人男性だった。

「こんばんは」と男は言った。「珍しいものを探しているんですが」


クラウスは、目の前の男を注意深く観察した。「何をお探しで?」

「実は、扇風機なんです。ただの扇風機じゃなくて...特別なものを」

クラウスの目が光った。「特別な扇風機、ですか」


男は頷いた。「はい。噂で聞いたんです。この店には、悪魔を呼び出せる扇風機があるって」

クラウスは、ゆっくりと立ち上がった。「そのような噂を、どこでお聞きになった?」

「ネットの裏掲示板です。誰かが、ナチスの秘密兵器だとか...」


クラウスは、男の背後にある鏡を見た。そこには、男の姿が映っていなかった。

「あなたは...人間ではありませんね」クラウスはつぶやいた。

男の顔が歪み、その姿は徐々に変貌していった。人の形をした影となり、その目は赤く光っていた。


「よくぞ見抜いたな、人間よ」影は低く唸るような声で言った。「私はお前が作り上げた召喚装置に惹かれてやって来た。我が主、偉大なるクトゥルフの名において、その扇風機を渡すのだ」


クラウスは冷静さを保ちながら、ゆっくりと後ずさった。「残念だが、それはできない相談だ」


影は大きく膨れ上がり、店内を闇で満たしていった。「ならば、力ずくでも奪い取ってやろう!」


クラウスは素早く行動した。彼は棚の奥から、鉤十字の刻まれた小箱を取り出した。箱の中には、古ぼけた羊皮紙が収められていた。


「これは...ネクロノミコンの一部だ」クラウスは宣言した。「お前たちが恐れる言葉が、ここに記されている」

影は一瞬、躊躇した。「まさか...」

クラウスは羊皮紙に書かれた呪文を唱え始めた。古代の言葉が響き渡り、影は苦しそうに身をよじった。

「やめろ!その言葉を...」

しかし、クラウスは止まらなかった。呪文が進むにつれ、影は徐々に縮小していった。そして最後の言葉と共に、影は完全に消え去った。

店内に静寂が戻った。クラウスは、額の汗を拭った。


「これで終わりだと思うなよ」

声が聞こえた。クラウスが振り向くと、扇風機が勝手に回り始めていた。そして、その風と共に、おぞましい姿の存在が現れ始めた。

触手のような腕を持ち、人の顔とタコを組み合わせたような顔を持つ巨大な存在。それは、クトゥルフそのものだった。


「よくぞ我を呼び出した、人間よ」クトゥルフは言った。「お前の野望は、遂に実を結んだのだ」


クラウスは震える声で答えた。「偉大なるクトゥルフよ...私は、あなたの力を求めてこの装置を作り上げました」

クトゥルフは、その巨大な触手でクラウスを掴んだ。「愚かな人間よ。我を支配できると思ったか?」

クラウスは苦しそうに答えた。「いいえ...私が求めていたのは、支配ではありません」

「ほう?では何だ?」

「知識です」クラウスは言った。「宇宙の真理を知りたかったのです」

クトゥルフは、不気味な笑みを浮かべた。「ならば、その願い、叶えてやろう」

クラウスの体が、徐々に変形し始めた。彼の肉体は、宇宙の真理を受け入れるには脆弱すぎたのだ。


しかし、その瞬間、予想外の出来事が起こった。

店の隅に置かれていた古い置時計が、突如大きな音を立てて鳴り始めたのだ。その音は、クトゥルフの姿を揺らがせた。

「これは...」クトゥルフは困惑した様子で言った。「時空の歪み?」

時計の針が狂ったように回り始め、店内の空間が歪んでいく。クラウスの体が元の姿に戻り始めた。


「まさか...」クラウスは驚きの声を上げた。「これは...タイムパラドックス?」

クトゥルフの姿が徐々に薄れていく。「くっ...まさかこんな形で...」


そして、大きな光と共に、クトゥルフの姿は完全に消え去った。店内は、元の静かな状態に戻った。


クラウスは、何が起こったのか理解できずにいた。そして、彼の目に映ったのは、扇風機の中から覗いている小さな装置だった。

それは、タイムマシンの一部だったのだ。

クラウスは、やっと理解した。彼が作り上げた扇風機は、単なる悪魔召喚装置ではなかった。それは、未来から送られてきた装置だったのだ。そして、その未来の彼自身が、過去の自分を救うために、この仕掛けを施していたのである。


クラウスは、扇風機を見つめながら考えた。「これが終わりではない。むしろ、本当の始まりなのかもしれない」


彼は慎重に扇風機を調べ始めた。しかし、その瞬間、店の外で大きな物音がした。クラウスが振り向いた隙に、影のような何かが素早く店内に忍び込んだ。


「誰だ!」クラウスは叫んだが、返事はなかった。


彼が再び扇風機に目を向けたとき、愕然とした。扇風機が消えていたのだ。

「まさか...」

クラウスは急いで店中を探し回ったが、扇風機は見つからなかった。窓は開いたままで、そこから夜風が入ってきていた。


誰かが、あの貴重な扇風機を盗んでいったのだ。しかも、まるで霧のように音もなく。

クラウスは呆然と立ち尽くした。彼の長年の研究の結晶、そして未来への鍵が、あっという間に奪われてしまったのだ。


「くそっ...」彼は歯噛みした。「あの扇風機を取り戻さねば」


しかし、手掛かりは何もない。盗んだ者の正体も、目的も分からない。

バンコクの夜は更けていった。古道具屋の窓からは、もはや扇風機の音は聞こえない。代わりに、クラウスの苦悶の吐息だけが響いていた。

彼は決意した。どこへでも行く。何年かかっても、あの扇風機を探し出す。なぜなら、その中には未来への鍵が隠されているのだから。


こうして、クラウス・シュミットの新たな冒険が始まった。彼は、失われた扇風機を追って、バンコクの迷宮のような路地を歩み始めたのだった。


バンコクの街に、新たな風が吹き始めていた。それは、過去と未来を結ぶ、不思議な旋風だった。そして今、その風は誰かの手によって攫われ、未知の場所へと運ばれていったのである。

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