異境の囁き―バンコク怪奇譚3 バンコクの黒犬伝説 – 恐怖の深夜タクシー

私は今、この世のものとは思えぬ恐怖に震えながら、自らの経験を記している。読者諸氏よ、これから語る物語が狂気の産物だと思われても構わない。しかし、私の魂に誓って、これは真実なのだ。


私の名は桜田一郎。かつては東京の大手広告代理店で働くエリートサラリーマンだった。しかし、経済の荒波に飲み込まれ、会社のリストラ対象となってしまった。自信を失い、将来への不安に苛まれる日々。そんな中、一時の安住の地を求めてバンコクへと飛んだのだ。


バンコク到着後、私はクローン運河沿いのラーマ4世道路に面した古びたアパートに住むことになった。この一帯は昔、タイ王朝の中心地であり、運河の暗渠には祟り神が棲み着くという言い伝えがあった。そんな不吉な噂も知らず、私は日々の生活に埋没していった。


アパートの隣には、一匹の黒い犬がいた。その犬は常に私を睨み、吠えていた。私には幼少期のトラウマがあった。野良犬に襲われ、深手を負った記憶が、今でも心の奥底に潜んでいるのだ。表面上は平静を装っていたが、その黒い犬を見るたびに、私の心は恐怖に震えていた。


ある深夜、私はアパートの前でタクシーを待っていた。普段なら簡単に拾えるのだが、その夜に限って一台も通らない。周囲は闇に包まれ、遠くの橋の下から運河の水音だけが聞こえてくる。不意に、枯れ葉が舞う度に私は戦慄を覚えた。そして、遠くで不気味な物音が聞こえ始めた。


突如、トッケーが4回鳴いた。その直後、野良犬たちの遠吠えが次第に大きくなってきた。気がつくと、私は野良犬の群れに取り囲まれていた。彼らは私を直接襲う気配はなかったが、その存在感だけで私の心は恐怖で凍りついた。そして、最も恐ろしい瞬間が訪れた。犬たちの目が一斉に赤く光り始めたのだ。

その時、隣家の黒い犬が突然私に飛びかかってきた。私は悲鳴を上げ、振り払おうとしたが、犬は私の腕に食らいついた。血が噴き出し、痛みと恐怖で私の意識は朦朧としていた。


幸運にも、近くにいたタクシーの運転手が駆けつけてくれた。彼は犬を蹴飛ばし、私を車に乗せてくれた。私は感謝の言葉も言えず、ただ病院に連れて行ってくれるよう頼んだ。


車内で傷口を押さえながら、私は犬の目に宿っていた憎しみと殺意を思い出していた。それはまるで、ポーの「黒猫」に描かれた復讐心に燃える目のようだった。

「運転手さん」と私が声をかけたが、彼は無言のままだった。暗闇の中で彼の顔はよく見えなかったが、目だけが赤く光っているように見えた。そして、助手席には古びた黄色の扇風機が置かれていた。その扇風機の羽根は、電源が接続されていないにもかかわらず、ゆっくりと回転を続けていた。


突然の恐怖が私を襲った。運転手の目が、あの黒い犬と同じ赤い目だったのだ。私は震える声で尋ねた。「運転手さん、あなたの目が...」しかし、彼は依然として無言だった。


やがて病院に到着すると、運転手は黙って降り、夜の闇に消えていった。気がつくと、タクシーも跡形もなく消えていた。私は震えながら病院に入った。

治療を受けた後、私は自らの体験を警察に報告しようと決意した。しかし、警察官たちは私の話を半信半疑で聞いていた。証拠がないため、捜査は進まなかった。

その後、私は近所の人々に聞き込みを始めた。そこで驚くべき証言を耳にした。

モタサイバイクタクシーのブンおじさんは語った。「あの黒い犬は、この辺で起きた残虐な殺人事件の犠牲者の魂が宿ったという噂があるんですよ」

大学生のエーは付け加えた。「毎晩聞こえる犬の遠吠えは、殺された人の怨念の声だと言われています」

さらに、アパートの管理人であるレックは、もっと恐ろしい話を聞かせてくれた。「赤い瞳の男」が現れるという噂だ。「その男に出会うと、不思議な病に冒されるか、最悪の場合は命を落とすんです」と彼女は語った。

レックは続けた。「あなたの部屋では、以前日本人の不動産屋の社長が階段から落ちて死んだり、外国人のバックパッカーが発狂したりしたんです。その始まりは、この近所で起きた衝撃的な殺人事件がきっかけじゃないかと...」


私は戦慄した。殺人事件の詳細を聞くと、それは想像を絶するものだった。ある夜、夫からの暴力に耐えかねた妻が、黄色い扇風機で夫を撲殺したというのだ。その扇風機は、私がタクシーで見たものと酷似していた。


日が経つにつれ、私は強迫観念に囚われるようになった。前世で私がその黒い犬を虐殺したのではないか、という考えが頭から離れなくなった。夜になると、赤い目をした男の幻影が見えるようになり、眠れない日々が続いた。


ある日、隣人の黒犬が捕獲され、病院に連れてこられた。獣医から衝撃的な事実を告げられた。「この犬は命にかかわる重傷を負っています。しかし、傷の原因となった人を憎み呪っているかのように、誰にも近寄らせません」


その言葉を聞いた瞬間、私は自分が呪われていると確信した。そして、その夜から奇妙な出来事が続いた。部屋の隅に黒い影が見えたり、夜中に誰かが歩く足音が聞こえたりした。最も恐ろしかったのは、毎晩3時33分になると、どこからともなく扇風機の音が聞こえ始めることだった。


ある夜、私は耐えられなくなり、アパートを飛び出した。運河の曲がり角まで来たとき、突然の銃声が鳴り響いた。私は胸に鋭い痛みを感じ、地面に倒れ込んだ。

最後の意識の中で、私は銃を持った男を見た。彼は酷く削げた顔立ちで、まるでタイ史上最悪の殺人鬼集団"マイペンライ兄弟"の生き残りのようだった。彼は私に向かって言った。「お前は忠告を無視して真夜中に扇風機を止めなかった。罪を償え」

私の視界が暗くなる中、遠くに一匹の黒犬が横たわっているのが見えた。そして、闇の中から赤い瞳が私を見つめていた。


私の意識が消える直前、突然の閃きが走った。これまでの出来事、黒犬、赤い瞳の男、黄色い扇風機...全てが繋がった。そして、私は恐ろしい真実に気づいた。

私は死んでいたのだ。


あの日、野良犬に囲まれた時から、私はすでにこの世を去っていた。タクシーの運転手、病院での治療、警察への通報...全ては私の死後の幻想だったのだ。私は自分の死を受け入れられず、現実と幻想の狭間をさまよっていたのだ。

赤い瞳の男は死神だった。彼は私を現実へと導こうとしていたのだ。黒犬は私自身の魂の象徴であり、私が受け入れられなかった死の現実を表していた。

そして、黄色い扇風機。それは私の人生の終わりを告げる時計だったのだ。毎晩3時33分に聞こえていた音は、私を現実へと引き戻そうとする死神の警告だった。

今、全てを理解した私は、ようやく安らかな眠りにつくことができる。読者諸氏よ、私の物語を忘れないでいただきたい。そして、深夜に扇風機の音が聞こえたら、決して無視せずに耳を傾けていただきたい。それは、あなたへの最後の警告かもしれないのだから。

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