異境の囁き―バンコク怪奇譚2 『恐怖の虫喰い寺院』

バンコクの喧騒から遠く離れた郊外、人々の記憶からも忘れ去られたかのような場所に、一軒の古びた寺院が佇んでいた。その存在すら知る者はほとんどいない。しかし、この寺院こそが、昆虫食研究者である桜井桃子と彼女の友人ブンにとって、未知の昆虫食を探求する秘境だった。


二人は、タイの大学に留学中の日本人学生と現地学生。桃子は筋肉質な体格で、細やかな観察眼を持つ。一方のブンは好奇心旺盛で、時に軽率な一面を持つ。この正反対の性格が、彼女たちを思いもよらぬ冒険へと導くことになる。

8月のある蒸し暑い日、二人は大学のキャンパスを後にし、バンコク郊外へと向かった。途中、タクシーを降り、うっそうとした森の中を歩いていく。やがて、木々の間から古びた寺院の姿が現れた。


「ねえ桃子、あれ見て!なんて大きなカブトムシ!」ブンが興奮気味に指さす先には、奇妙なデザインの扇風機が回っており、その周りを巨大なカブトムシが飛び交っていた。


桃子は眉をひそめる。「確かに珍しいカブトムシだけど…でも、何かが変だね。こんな場所で、こんな大きなカブトムシがなぜ?」

二人は好奇心に駆られ、カブトムシを追いかけるうちに、気がつけば寺院の中に足を踏み入れていた。内部は薄暗く、空気は淀んでいた。壁には奇妙な模様が描かれ、それが蠢いているようにも見えた。


ブンは無我夢中でカブトムシを追いかけ、ついに捕まえた。「やった!捕まえたわ!」


「ブン、食べるのはやめたほうが…」桃子が警告するが、ブンは興奮のあまり、その言葉を聞き流してしまう。


「大丈夫よ、昆虫食はタイでは普通のことだもの。」ブンは自信満々に答え、捕まえたカブトムシを口に放り込んだ。

その瞬間、寺院全体が震動し始めた。壁に描かれた模様が蠢き、床から無数の虫が這い出てきた。ブンの様子も急変する。彼女の目は虚ろになり、意味不明な言葉をつぶやき始めた。


「ブン、大丈夫?何言ってるの?」桃子が心配し声をかけるも、ブンは答えない。代わりに、不規則な動きで桃子に近づいてきた。

「桃子、逃げて…私、何かが…うわあああ!」ブンの叫び声が寺院全体を震わせる。その声は人間のものとは思えないほど歪んでいた。


恐怖に駆られた桃子は、寺院の奥へと逃げ込む。そこは地下室に続く不気味な空間だった。壁を這う無数のカブトムシ。そして、追いすがるブン。


「ブン、これ以上は…来ないで!」桃子は後ずさりながら叫ぶ。

「桃子…助けて…」ブンの声はもはや人間のものではなく、虫のような音色を帯びていた。


絶体絶命の中、桃子は祖母が唱えていた南無妙法蓮華経を思い出し、必死に唱え続けた。すると、不思議なことに、虫たちの動きが緩慢になり始めた。


しかし、それも束の間。突如、地下室の奥から巨大な影が現れた。それは人間と昆虫が融合したような、おぞましい姿をしていた。


「よくぞ来てくれた…」その声は、人間の声とも虫の羽音ともつかない不気味な響きだった。「我々は、お前たちのような好奇心旺盛な若者を待っていたのだ…」

桃子は震える声で尋ねた。「あなたは…何者なんです?」

「我々は、古来より昆虫と人間の融合を目指してきた秘密結社の末裔だ。この寺院は、我々の実験場なのだよ。」

その言葉に、桃子は背筋が凍る思いがした。彼女は必死に頭を働かせ、脱出の方法を探る。そして、ふと気づいた。彼女の腕時計が、微かに光を放っている。

「そうか…これは…」桃子は小さくつぶやいた。


巨大な影が近づいてくる中、桃子は急いで腕時計を操作し始めた。それは、彼女が密かに開発していた、虫を寄せ付けない超音波発生装置だった。


装置が起動すると同時に、寺院中の虫たちが混乱し始めた。巨大な影も苦しそうに身をよじる。

「ブン!早く!」桃子は友人の手を引き、急いで寺院を後にした。

二人は息も絶え絶えに森を抜け、ようやく人気のある場所にたどり着いた。そこで、彼女たちは気を失った。


目が覚めると、二人は大学の保健室のベッドに横たわっていた。

「よかった、目が覚めたのね。」看護師が安堵の表情で二人を見つめていた。

桃子とブンは、互いの顔を見合わせた。そこには、恐怖の体験を共有した者同士の、言葉にならない理解があった。



数日後、二人は再び大学のキャンパスで落ち着いた日常を過ごしていた。しかし、その平穏な表面下には、あの恐ろしい体験の記憶が潜んでいた。


「ねえ、桃子。」ブンが静かに声をかけた。「あの日のこと、覚えてる?」

桃子はゆっくりと頷いた。「ええ、もちろん。でも…」

「でも、なに?」

「あれは、本当に起こったことなのかな。」桃子は遠い目をした。「それとも、私たちの想像が生み出した悪夢だったのか…」


ブンは首を傾げた。「でも、私たちは同じ体験をしたのよ。それに…」彼女は周りを見回してから、小さな声で続けた。「あれ以来、私、虫の声が聞こえるの。」

桃子は驚いた表情を浮かべたが、すぐに冷静さを取り戻した。「そうね。私たちが体験したことは、科学では説明できないかもしれない。でも、それは確かに起こったんだと思う。」


二人は互いに頷き合い、キャンパスの中を歩き始めた。そのとき、彼女たちの耳に、微かな虫の羽音が聞こえた。


それは、彼女たちだけに聞こえる秘密の言葉だった。


その夜、桃子は自室で日記を書いていた。

「今日も平穏な一日だった。しかし、あの寺院での出来事は、私たちの中で生き続けている。ブンは虫の声が聞こえると言う。私にも、時々聞こえる気がする。これは祝福なのか、それとも呪いなのか…」


彼女は日記を閉じ、窓の外を見た。そこには、巨大なカブトムシが飛んでいるように見えた。しかし、目をこすると、それは消えていた。


翌日、桃子とブンは図書館で昆虫に関する古い文献を調べていた。そこで彼女たちは、驚くべき事実を発見する。


「ねえ、これ見て。」ブンが古びた本を指さした。そこには、彼女たちが見た巨大な影と酷似した姿が描かれていた。

「この本によると、古代から続く秘密結社があって、人間と昆虫の融合を目指していたんだって。」桃子が息を呑む。

「でも、それって…」

「そう、私たちが見たものと同じよ。」

二人は顔を見合わせた。彼女たちの冒険は、まだ終わっていなかったのだ。

その夜、桃子は再び日記を開いた。


「私たちは、何か大きなものに巻き込まれているのかもしれない。でも、怖くはない。むしろ、この謎を解き明かしたい。ブンと一緒なら、きっと…」

彼女が筆を置いたとき、部屋の隅に小さな影が動いた。それは、巨大なカブトムシだった。しかし今回、桃子は目をそらさなかった。

カブトムシは彼女に向かって歩み寄り、その背中が開いた。中から、小さな巻物が現れた。


桃子は震える手でそれを広げた。そこには、古代の言葉で何かが書かれていた。彼女は、その意味が分かった。


「選ばれし者よ、我々の世界へようこそ。」

桃子は深呼吸をした。彼女の冒険は、まだ始まったばかりだった。そして、この冒険が彼女をどこへ導くのか、誰にも分からない。


ただ一つ確かなことは、もはや彼女の世界は、二度と元には戻らないということだった。

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