バンコク怪奇譚

中村卍天水

バンコク怪奇譚1 バンコクの呪われた扇風機 - 永遠の囁き

バンコクの喧噪が夜の帳に包まれる頃、古びたアパートの一室で、私は筆を走らせている。私の名はアキラ・ナカムラ。日本人の血を引くタイ人作家だ。この物語は、私が取材を通じて知り得た不可解な出来事の記録である。読者諸氏には、これから語る奇怪な話が単なる作り話ではないことをお伝えしておく。


すべては、大田太郎という日本人実業家の死から始まった。彼は「横綱不動産」という小さな会社を経営し、日本とタイの架け橋となることを夢見ていた。その夢は、彼が選んだ住まいにも表れていた。地元民向けの古いアパート。


月々の家賃はわずか3000バーツ。日本人には想像もつかない環境だったが、太郎にとっては戦略的な選択だった。


しかし、彼の日常は突如として変貌を遂げる。アパートの住人からの騒音クレーム。原因は、太郎の日課である相撲の四股だった。


新たな住まいを求めて彼が辿り着いたのは、運河沿いのコンクリート造りのアパート。最上階の一室。そこには、中国系タイ人が残していった古い扇風機があった。


引っ越しの日、太郎はポンおばさんと出会う。彼女は若いころ日本に住んでいた経験から、カタコトの日本語で警告した。


「その扇風機、寝るときは使うな、危ない」。しかし太郎は、その言葉を迷信として一蹴した。


その夜、太郎は不気味な夢にうなされる。夢の中で、タイ人の男女が激しく言い争い、女が扇風機で男を殴りつける光景が繰り広げられた。


目覚めた時、部屋は静まり返っていたが、心の奥底には不穏な予感が残っていた。


翌朝、太郎はいつもの日課をこなし、急いで出勤しようと階段を駆け下りた。そして、ポンおばさんの警告が現実のものとなる。


階段で滑って転落死したのだ。彼の手には、バナナの皮。そして数日後、例の扇風機はアパートのゴミ捨て場に捨てられていた。


ここで物語は新たな展開を見せる。アメリカからやってきたバックパッカー、ジョン・スミスの登場だ。彼は旅の途中で耳にした、このアパートにまつわる噂に惹かれ、太郎の後を追うように部屋を借りた。


ポンおばさんは、ジョンにも同じ警告を与えた。「夜、その扇風機を使うな。不吉なことが起こるかもしれんぞ」。しかし、ジョンもまたこの忠告を軽んじた。


ゴミ捨て場から拾ってきた扇風機のスイッチを入れると、古びた風が部屋に流れ込んだ。夜が更けるにつれ、ジョンは蒸し暑さを忘れるかのように、扇風機をつけたまま眠りについた。


真夜中、不可解な囁き声が部屋に響き渡る。「逃げて...」その言葉が何度も繰り返され、やがて「来て...」という誘いへと変わった。


翌朝、ジョンは前夜の出来事を何も覚えていなかった。目覚めると、部屋の壁には奇妙な記号が描かれ、その中央には扇風機が静かに佇んでいた。


ポンおばさんは、姿を見せないジョンを心配し、扉を叩いた。しかし、返事はなかった。ただ、扇風機からは依然として不気味な囁き声が漏れ聞こえていた。


ここまでが、私が取材を通じて知り得た事実である。しかし、物語はこれで終わらない。私は、この奇怪な出来事の真相を突き止めるべく、自ら調査を開始した。


私は、ポンおばさんの協力を得て、ジョンが姿を消した部屋に足を踏み入れた。室内は、奇妙な静けさに包まれていた。壁に描かれた記号は、よく見ると古代タイ文字のようにも見える。そして、部屋の中央に置かれた扇風機。私は恐る恐る近づき、その表面を観察した。


扇風機の台座には、微かに文字が刻まれている。古代タイ語と中国語が入り混じったような、奇妙な文字列だ。私は、その文字を書き留めることにした。


夜が更けるにつれ、私は扇風機の謎に取り憑かれていった。古書や専門家を訪ね歩き、ついにその文字の解読に成功した。それは、「時を超えし者、永遠の囁きを聞くべし」という意味だった。


私は、この謎を解き明かすため、扇風機のスイッチを入れることを決意した。ゆっくりと回り始める羽。そして、かすかな風と共に聞こえてきた囁き声。「来て...」


その瞬間、部屋の景色が歪み始めた。私は目まいを覚え、意識を失いそうになる。気がつくと、私はバンコクの古い路地に立っていた。しかし、そこは私の知るバンコクではない。古びた建物や着物姿の人々。どうやら、私は時を遡っていたようだ。


そこで私は、若き日のポンおばさんと出会う。彼女は日本への留学を控えていた。そして、彼女の恋人である中国系タイ人の青年。彼らの会話から、この扇風機が二人の思い出の品であることを知る。


しかし、その後の光景は衝撃的だった。青年は、ポンおばさんの日本留学を阻止しようと、激しい口論の末に彼女を傷つけてしまう。ポンおばさんは、とっさに近くにあった扇風機を掴み、防衛のために振り回す。青年は床に倒れ、動かなくなった。


恐怖に震えるポンおばさん。彼女は、扇風機に古い呪文を唱え始めた。「時を超え、魂を宿らせよ」。その瞬間、扇風機から青白い光が放たれ、青年の体が消えていく。


私は再び目まいを覚え、現在のバンコクへと戻ってきた。部屋には、ポンおばさんが立っていた。彼女の目には、悲しみと諦めの色が浮かんでいる。


「あなたも知ってしまったのね」彼女はため息をつきながら語り始めた。「あの扇風機は、私の過去の罪の証。恋人の魂を閉じ込め、永遠に生かし続けている。太郎さんもジョンさんも、その魂に触れてしまった。彼らは、時の狭間に迷い込んでしまったの」


私は震える声で尋ねた。「では、彼らはどこに...?」


ポンおばさんは悲しげに微笑んだ。「彼らは、永遠の時の中で生き続けている。そして、新たな犠牲者を求めて...」


その時、扇風機が再び回り始めた。私とポンおばさんは、恐怖に満ちた表情で見つめ合う。そして、かすかな囁きが聞こえてきた。

「来て...私たちと共に...永遠の時を...」


私は急いでペンを走らせ、この物語を書き記している。読者諸氏、もしこの扇風機を見つけることがあれば、決してスイッチを入れてはならない。そして、夜に聞こえる囁きの誘いに、耳を貸してはいけない。


なぜなら、あなたも永遠の時の囚人となるかもしれないのだから。


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