第26話 遠い世界
こうして、ふたりが橋のたもとに座してから、かれこれふた時が経とうとしていた。
この橋に来た時から、信長の傍らで長く微動だにせず蹲踞の姿勢でたたずむ少年がいた。フロイスの視界からも消えてしまうほどの存在感であった。
彼の名は、武勇で名高い美濃森可成の次男で十一歳になる森長可である。
彼の右手には、紫色の袱紗で握られた朱鞘の太刀が握られていた。
その彼に向い、信長は声をかけた。
「長一」
そして、呼ぶが早いか否か。
信長は金剛の鼻緒を親指で強く握りしめ、寄せた肩口から馬手で太刀の柄をとり一気に抜刀した。
したかと思うと、さらに弓手を鍔の下柄に添え刀身を横身に寝かせ、そのままの構えで橋板を駆けた。
手にするは三好実休由来の備前長船光忠である。
一閃。
太刀は間横一文字に空を切り、切っ先は天を指す。
同時に目の前にいた家臣の首は胴から離れ濠へと転がり落ちていった。
その場にいた多くの物見たちは何が起こったのかと息をのんだ。そして、その場が凍り付いた。
ごくりと飲んだ唾が停止した時を再び動かせるまで。
男の体は、自らの首が離れたことに気づく間もなく血しぶきをあげてばったりと地面へ倒れ落ちた。
信長はいつもと変わらぬ顔つきで、男から声を掛けられていた娘に対していった。
「予の家臣である。すまぬ」と。
そして、フロイス神父にも顔を向けた。
「ひと時ではあった。会えて嬉しく思う。世界は広い事がわかった」と言った。
「また会う」と、短言い。
太刀の汚れを懐紙で拭い刀身を鞘に納めながら背を向けた。そして踵を返し城内へと消えていった。
残されフロイス神父は、その一部始終を見て、ふた時まで話していた信長と今の信長がとても同じ人物であるとは思えなかった。
そして、この世界が広く遠いものに感じた瞬間でもあった。
信長の刀の切っ先の先にあった空を見ながら死者のために主への祈りを捧げた。
「あなたも、わたしもこれが全てではないことを祈っています」と
信長が消えた方角には閉じられた二条屋敷の城門が見えた。
フロイスは、次の日、信長からの允許を受けた。
さらに、この直後の永禄十二年四月八日に。信長から「真の教えの道と称する礼拝堂に対する宗門の伴天連」宛ての允許として朱印書を得た。
また、それにあわせて十五日には将軍足利義昭の允許として制札も与えられた。
これで、晴れて洛中での布教の許しを得ることとなったのである。
義輝の時に得た允許よりは力があるものであってほしいとフロイスはそう思っていた。
だが誰も、この時にこの行く末を知る者はいなかった。
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