第24話 義昭邸の建設
話は、少し遡る。
永禄十二年一月四日に義昭邸が襲われた。
信長が洛中で不在のすきを狙われた事件である。
政変は、駐在の家臣たちの奮戦により辛くも逃れたが、義昭は兄義輝の最後を思い大きな不安に駆られていた。
岐阜からの応援を得るまで屋敷が持ちこたえられるようにと、二月二日に信長に命じ館の改修を指示した。
信長はそれを受け取り、館を城塞化した城として洛中に新たに城を築く決意をした。
そして、二月二十七日に鍬入れ式をした。
洛中にはすでに多くの建物が建っており、巨大な城郭を築くことができるだけの広い土地が無かったため、いずれかの寺、屋敷を取り壊すしか地所を見出すことは困難な状況であった。
信長が目をつけたのは、かつて宮中警固を任としていた武衛斯波氏が構えていた屋敷であった。そこは将軍義輝が御所としていた土地でもあった。
義輝が三好一族に討たれた後、ここには極楽寺という菩提寺が建てられていた。
信長はこの堂を移転させ武家御城の築城に取り掛かかった。
彼がこの地を選んだのは、ここが永正五年に足利義稙が館を構えて以来、この地が将軍家の居館地となっていたことを知っていたからである。
城はまず西之方隅の石積みから始められ、すぐに方の形をした外郭が出来上がった。
屋敷地の四方には深い濠が掘られ、石垣は高く四間一尺ほどあった。四隅には洛中でも見たことが無いような高さの石垣が積まれその上に櫓が構えられた。その威容は新しい政の姿を知らしめるものであった。
一日に数千人という人夫を動員し、急いだ普請のこともあり、南之岸では石垣が崩れ七十八人もの人夫がその下敷きになるという事故も起こったが、三月にはいると普請はあらかた出来上がり、その上の作事に着手し始めた。
十一日には南櫓門、二十八日には西櫓門が出来上がり、その中に御所にふさわしい会所御殿の建設が進められた。
作事奉行には村井民部、嶋田所之助が命じられ、畿内一円より材木が集められ、洛中・洛外の鍛冶・番匠・杣を召し寄せ、金銀をちりばめた御殿が完成しつつあった。
宮殿の真ん中には庭があり、百合や薔薇、雛菊などが植えられ、泉、鑓水、築山を築き、細川家から藤戸石という大石を引いて庭に置いた。
運搬に当たっては綾錦を以て石包ませ、信長自身が先頭に立って色々花を持って飾り大綱で牽き笛太鼓つづみをもって囃し立てるというものものしさであった。
信長は故実にのっとり自らが奉じて上洛し、次期政権を担う義昭の威信を立てることで、洛中に武威の姿を知らしめようしていたのである。
信長にとって、これが洛中で最初の仕事であり、それゆえに思いは強く大きかった。
だから自ら陣頭に立ち、自らの力を洛中に知らしめるためにこの建築に力を注いでいたのである。
完成も間近となった四月。
その場所でフロイスと信長は、再開することとなった。
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