第15話  義昭の脱出

三好一族は、足利義輝を亡き者とした後、十四代将軍として足利義栄を擁立しようとしていた。義栄は足利義維の子で、かつては堺公方と称された人物である。


一時は畿内を制圧する勢いがあったが、しばらくして細川晴元に敗れ、都落ちし今はは阿波に逃げていた。


阿波三好一族は、いずれ彼が役に立つと匿っていた。

そして、その日がやって来たのである。三好一族の息がかかる将軍にすげかえるため義輝を殺害し義栄を擁立した。


義栄を将軍にするにあたっては義輝の血筋が邪魔であった。

当時まだ、義輝の子は幼かったため義輝殺害後に後継として擁立されるのではと懸念されていたのは二人の弟であった。


ひとりは、末子の周暠である。彼は幼いころから京相国寺塔頭の鹿苑院に入り僧籍にあった。彼は義輝殺害時に松永の家臣平和泉守により殺害された。時に十七歳であった。


同じく、すぐ下の弟に興福寺一条院門跡となっていた覚慶がいた。覚慶はこの時二十六歳。大和で実質的権力を握っていた興福寺によって守られていたため松永久秀もすぐには手が出せなかった。そのため幽閉という形で監視した。


それがまずかった。


この政変における三好一族の大きな失態は、この義輝の血筋を取り逃がしてしまったことにあった。なぜなら、このあと覚慶は信長の手に落ち、信長の手により上洛して第十五代将軍義昭となってしまうからである。


 この時の顛末は、次のような事であった。


永禄八年七月二十八日。

覚慶を脱出させるべく、各方面からの工作が始まった。


越前の朝倉義景は、松永に対し彼を開放するよう要求。しかし、決裂した。


これに対し、足利幕府の古参奉公衆で、後にその子が「黒衣宰相」として活躍する南禅寺金地院崇伝以心の父一色藤長。それに細川藤孝が画策し覚慶を一条院から脱出させることを試みる。


ふたりは覚慶を百毫寺から山添村とおり伊賀柘植に逃がした。そこから、伊賀見城をすぎ国境を越え甲賀に入り、甲賀衆の道案内により高嶺氏居城高嶺城を抜けて、奉公衆の和田惟政の居城和田城に入れることに成功したのである。


近江甲賀郡の城は、同名惣中という連合自治組織で成り立っており、シダの葉のように深く入り組んだ谷の随所に領地を自営するための城が築かれていた。城は往来する道と川を監視するため、山頂から見下ろす位置にあった。


和田城もそのような城郭郡のひとつで、川と道を挟むようにして両側の三ツの山にそれぞれ城が配されていた。


甲賀郡の武士団の多くは、鎌倉御家人として在地化した領主たちが多く、室町幕府では、奉公衆として位置づけられ、洛中から鈴鹿峠までの路次を警固するのがその主な任務として位置づけられていた。和田、服部、滝川、山岡、高山など、戦国武将の多くはここを本貫地とするものが多い。


覚慶は、この和田の館に匿われた。ここで覚慶はようやく落ち着くことができた。

彼は、ここで何れかの大国の守護を後ろ盾にし上洛を図りたいと考えていた。


八月に入り、ここから越後上杉輝虎をはじめ周囲の主だった守護へ向け、文を発し自らの後ろ盾となり洛中へ上洛することを促した。


しかし、近江六角承禎はもとより、それに呼応する守護はひとりもいなかった。


十一月、しびれを切らした覚慶は、仕方なしにひとまず越前の朝倉を頼ることとし、甲賀郡を出るまでの間を和田に託し、野洲郡矢島へて居を進めた。


永禄九年二月のひとである。そこで覚慶は、環俗し改名して義秋となる。


四月には、従五位下左馬頭に叙任された。

ここから越前へ向かうこととし、八月、ひとまず若狭国金ケ崎城へ向かった。


一方、岩成友通、三好政康、三好日向の三人衆は、次第に関係が悪化し分裂していった。

これに加えて阿波で勢力を伸ばしていた篠原長房が新たな将軍であることを称して、六月十一日に兵庫津、さらに摂津富田へと足利義栄を擁して進出し、西宮越水城に陣を構えた。


三人衆は大和の筒井順慶と手を組み、松永側から筒井城を奪還し、十二月二十一日に大和に進出し多聞城を包囲。


年が変わって永禄十年二月。


三人衆に拘禁されていた三好義継が脱出。久秀の基へ降りた。

四月、三人衆は、再び大和に出兵し東大寺に布陣し大仏殿に盾籠もり、そこを拠点として多聞山城に攻撃をかけたのである。


これらの戦いで興福寺が焼失。七月二十三日には戒壇院が炎上。さらに十月十日、大仏殿も焼失してしまうというあるまじき時代へと発展していた。


永禄十一年四月。朝倉義景を頼って一乗谷に入っていた義秋は元服し義昭となった。


しかし、義景の腰は重く、彼を見限った義昭は尾張守護代の織田信長からの誘いを受け上洛を決意するのである。


このようななか、三好によって擁立された義栄は、洛中で朝廷が求めていた就任要件の銭一万疋が払えず困っていた。


その隙に、信長は近江にいた幕府の奉公衆たちを足掛かりに九月に義昭とともに上洛。十月十八日、信長の後ろ盾を得て、義昭は銭一万疋を払い将軍となったのである。

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