第11話  将軍足利義輝の死

近江国に逃げていた将軍義輝が洛中に戻ったことにより、天下の情勢は平穏無事な日々に戻ったかのように思われた。


しかし、無事はそう長くは続かなかった。

洛中は、間を置かず再び動乱に陥っていく。


「日本国の最高権力者とは、我々の国で云う君主とは、いったい誰を指すのであろうか」と、フロイスはアルメイダに訪ねてみた。


「やはり、それは万世一系の家柄として、この国の最高位にあり君主として君臨している帝ではござりませぬか。どんな動乱の中にあっても、帝をないがしろにするような支配者はこの世にはいないみたいです」と、アルメイダ。


「しかし、君主であり治世を行わなければならないはずの帝が、この国の実権を握っているようには思えない」


「たしかに帝、自らが手紙を出し指示をしてはいるが、それは、いずれも取り巻きで内裏にいる公家とよばれる事務官の指図による仕業ではないのか。その多くは利を己にしたものといわれ、金を持つ者への口利きばかりをしているのではないか」と少し語気を強めて言った。


「確かに、王の右手として、帝から武力で国を一つに束ねることを託された地位にある征夷大将軍こそが実効ある君主のように思えます」


「それを託された足利家に至っても、公家たちの真似事に興ずるばかりで、遊興の日々を送っており、治世は怠っております」とアルメイダ。


「今や政治は将軍家の家臣、またその下の家臣たちによって、生きる糧を生み出す個々の領地の支配だけによってなりたっており、そういう意味では、実際にその領地を治めている大名たちこそが真の君主にも見える」


「だからこそ我々も、その地域で力を持つ、大村氏、大友氏、大内氏などの大名たちの力を借りて布教を進めてきた」


「確かにそうでございます」と、アルメイダは頷いた。


「この三重構造ともゆうべき仕組みが、世の混乱を招いており、臣民と領地の取り合いが繰り返されるだけで民の安定した暮らしはいっこうにやってはこない」フロイスはふたたび語気を強めて言った。


そこへ。


法衣を両手で掴みながら、慌てふためいた形相で教会堂に駆け込んできたのはヴィエラ神父であった。


「どうかしましたか。ヴィエラさま」


慌てふためく神父を落ち着かせようと手を取りながらフロイスは顔を向けた。


「大変にございます。洛中でなにやら大きな騒ぎがおこったようです。三好の軍勢が将軍の館を取り囲み攻め入ったとか」


「この白昼に、堂々とそのようなことが起こるとは、なんと恐ろしきことか」フロイスは押し黙った。


この大きな騒ぎとは、次のような出来事であった。


永禄八年五月十九日。世に云う「永禄の変」である。


室町幕府十三代将軍足利義輝が、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀の息子久道軍勢により襲撃されたのである。


事件の顛末は、その後、次々と日本人宣教者たちによってフロイスのもとに届けられた。総ずると次のような事であった。


足利氏の家臣に、河内国飯盛山を居城とする三好長慶というものがいる。

歳まだ二十四歳という若さである。彼は幕府の政務を中心的に執り扱う「執政」という地位にあり、洛中を中心に大きな勢力を誇っていた。


これとはべつに、同じように足利幕府で実権を握ろうとしていた武将がいた。

大和を本拠地とする松永久秀というものである。


彼は老齢であり、人々から恐れられ、はなはだ残酷な性格を持っていた。

久秀は本来、三好の家臣であったにもかかわらず、その実、隙あれば彼らにとって代わり実権を握ろうと予てからずっと画策していた。


時に、彼らの利害関係が共鳴し力を持ち始めていた将軍義輝を排除し、阿波にいる将軍の近親者である義栄をその地位に就かせることで、彼らの傀儡政権として、天下統一を目指す事を考えていたのである。悪だくみは時に対立関係を越えて手を結ぶ。


さすがの義輝もすでにこの不穏な動きは察知していた。

遡ること九日前の五月十日。義輝は事前に御所を脱出しようとしていた。


しかし、その行為自身が権威を将軍の権威を失墜させるとした宿老たちにとどめられ、討死を覚悟に籠城することになったのである。


将軍職として前代未聞の事態である。


三好は、義輝から数日前に授けられた「修理大夫」の職に対して、誠意を表するためとして、洛中へ行くことを偽り行動を開始した。


そして、飯盛城から久秀の息久通は、一万二千の兵で洛中に向かった。


十九日、三好・松永らは、清水参詣を名目に兵を動かせ、城門を堅固に構えられる前に包囲にすべくと、義輝の居所二条館に向かった。将軍に訴訟ありと偽り館を「御所巻」にし、将軍への取次を求めた。


奉公衆で義父である美作守進士晴舎が、訴訟の取次に右往左往をする間に、攻めての鉄砲衆が四方の門から侵入し攻撃を開始した。


守勢はわずかに二百名ほどであったが、奉公衆の技量は高く、すぐに三好方の数十人が打ち取られてしまった。


殿中ではわからぬまま取次をし、門を開けた晴舎が御前で腹を切るという事態が起こるなか、義輝は覚悟を決め家臣たちに食事の用意をさせ酒をふるまい最後の宴を張った。一同は大声をあげて泣きかつ涙を流しながら打って出ることを決意したという。


攻め手は、周囲から鉄砲を打ち込み、火矢を放った。


塚原卜全直伝の使い手であった義輝自身も勇猛果敢に刀を振るい戦った。

その腕前は確かであり、一瞬で数十人をなぎ倒した。その場にいた敵は、それが将軍とはしらずに応戦していた。


自刀が折れると、こんどは足利家伝来の名刀の数々を畳に突き刺し、抜いては切り、切っては抜きし奮戦し戦い続けた。古来まれにみる猛者の将軍である。


そのままさらに部屋の外に打って出ようとしたが、母計寿院はがそれを妨げようと打した。義輝はそれを突き放し、国主たる御身を隠したまま死んでは、足利家末代までの恥であると打って出た。そして、討死して果てた。


室町将軍において武士としての名に恥じない最後をとったのは義輝がただ一人であるといわれている。

 

多勢に無勢の中、昼頃までにはほとんどの者が討死にし勝敗は決した。


仕えていた女御たちは、戦場を逃げまどっていたが、兵士らは残酷に彼女たちも傷つけはじめた。数十の者は恐れて廊下の縁の下に隠れていたが、建物に放たれた火により生きながら焼き殺された。正室の近衛氏は実家に送り届けられたが慶寿院は自害する。


子を宿していた妾の小侍従局は混乱に紛れ御所を脱出し一乗院身を隠していたが、三好らの探索により発見され、半里離れた知恩院に連れていかれたのち四条河原で斬首された。異母弟鹿苑院主も同様に殺害された。


二人の娘も兵士たちの足もとに投げ出されていた。彼女たちはまだ子どもであり、一人のキリシタンがそれを見つけ、彼女らの命を救くうように懇願した。


戦いから二時間ほどが過ぎ相国寺の僧侶たちが、義輝の遺骸を引き取りに現れ、荼毘に付すことにした。


洛中における動乱と残虐な行為は、異常で非常なるもので、それを見聞した人々は心に大きな傷を負ったのである。




壮絶な死を遂げた第十三代室町幕府将軍足利義輝は、天文十五年十二月、父で十二代将軍であった足利義晴からその跡を譲られ将軍となっていた。


当初こそは、細川洛中兆家の細川晴元と連合し三好長慶と対立関係にあったが、しだいに両者の抗争に巻き込まれ、天文十九年年末には三好軍によって近江国朽木への移座を余儀なくされ一時洛中を離れていた。


その後、三好と講和し、天文二一年一月に朽木から洛中に戻っていたが、この状況も長くは続かず、天文二二年閏一月には三好との同盟関係は破棄され、かつて同盟であった細川晴元と再び同道することになった。


二月二六日、清水寺で義輝と長慶の会見が実現し、関係の修復が図られたが、三月に入るとこれがまた一変し、両者の間は再び破綻した。


七月、細川晴元勢が押し寄せ、三好長慶は洛中を脱出。義輝は三好氏との同盟をふたたび破棄し、細川晴元と同盟を結ぶという目まぐるしさであった。


八月、義輝は、また三好側の猛攻を受けて大敗し、再び洛中を逃れて近江国朽木に逃げていた。帰洛したのは、三好氏と講和した永禄元年のことで五年ぶりであった。しかし、再び亀裂が生まれたのである。


このように、三好氏の勢いはとどまることを知らず、・細川氏は失脚。将軍が在洛中し幕府が機能すると洛中の実権を握れないこと感じた三好氏は将軍の義輝の排除を現実のものとしたのである。


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