第2話 悲鳴
夜の闇が押し寄せていても、ネオンの明るさが星を照らしてくれる。
だがそれは明るさと共に、普段であれば目の届かぬ闇も、ぼんやりと浮かび上がらせる。
「ワタクシが誰だか分かっておりますの!」
少女の声だった。
金色のクルクルと巻かれた髪の毛が特徴的な少女が、勝気な瞳を振るわせて、威圧を込めた声を響かせる。
少女の周りには五人の男。その内のほとんどが、少女の言葉にやる気を出してしまう。
下品な笑みを浮かべる四人とは違い、冷静な男が一人。
「ええ。分かってますよ。王女様」
答えたのは上等なコートを着て、つばの広い帽子をかぶった男だった。
細く切れたような口元が僅かに歪んで、微笑んでいるようにも見える。
王女と呼ばれた少女は、見えないように赤いドレスの裾を握りしめながら、信じられないように言う。
「なぜですか。あなたは母様の親衛隊として、ワタクシの警護をしていたはず」
王女の周りにいる男たちが嘲るような笑い声をあげる。
「おいおい、この王女様はまだ俺達が親衛隊だって思ってるようだぜ」
「まったく、箱入り娘ってのも考えもんだな」
そう言った彼らの姿は、王女にとっては見知った顔である。
今、王女を囲んでいる男たち皆の名前だって呼べる。
「ザード。ジョッシュ。ズエド。ゼゼ」
名前を呼ばれた男たちは、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、ついには声を上げて笑いだす。
「ははははは。俺達はあんたのお仲間じゃねぇ」
「そうそう。あんたのお仲間は今頃、死者の星にでもいるんじゃねぇか?」
王女の顔に困惑が浮かぶ。
「ど、どうゆう事ですの」
その顔を堪能しながら、男が言う。
「俺達は入れ替わったのさ。あんたの大切なお仲間の身体を乗っ取ったって訳」
「殺して、型を作って、手術する。たったそれだけで、こんなに信じてもらえるとは」
「で、でも、声まで一緒で……」
「おいおい。今の技術なら喉から肺まで複製可能だぜ? ま、あの星じゃそんな技術ねぇもんな」
「そうそう。しかも俺らを手術してくれたのは、あの―――」
スッと上等なスーツの袖が出され、言葉を止める。
王女は僅かに動揺しながら、それでも問う。
「ゾリアン。あなたも、ゾリアンではないの」
笑う。
それは薄氷に入った罅のような、うすら寒く背筋の凍るような笑み。
「いいえ。私は私のままでございます」
「ならば―――」
「ああ。私が助けてくれるとお思いで? 残念ながらそれはあり得ません。なぜなら、彼らの入れ替わりを助けたのも、あなたをここまで誘い込んだのも、裏切るために女王の懐へ入り込んだのも、私ですから」
一瞬、王女は何を言われたのか理解できないようだった。
しかし、次の瞬間にはカッと目を見開き、怒りを露わにした。
「なぜ! ゾリアン。あなたには理想があったはずですわ。皆が幸せで、何不自由なく暮らせる世界を作るという、素晴らしい理想が!」
ゾリアンは帽子のつばを掴み、ぐっと深くかぶった。
「王女様。そのためです」
それは申し開きをしているようにも、笑みを隠しているようにも見えた。
ここに味方はいない。
王女はそう悟った瞬間、堪えていた恐怖が身震いとなって露わになる。
こわばった表情を浮かべた王女に対し、舌なめずりをするような四人の男。
唯一、ゾリアンと呼ばれたスーツの男だけは変わらず薄ら寒い笑みを浮かべていた。
「一つ、貴方様にお聞きしたことがございます」
「お断りします」
王女は気丈にも、いやおそらく元からそうゆう気性の荒さがあるのだろう。黄金に輝く瞳で、ゾリアンの青い瞳を睨みつける。
「王女様。人の話は最後まで聞くものだと、御母上からよくお叱りを受けていましたよね」
優し気な笑みを浮かべているが、そこにあるのは圧倒的上位者が下位の元へと向ける笑みに似ていた。
「母様からは、貴方のような礼節を知らぬ者とは会話するなと言われておりますわ」
「その御母上が残した革命軍はどこに隠れていますか?」
「知りませんわ。ワタクシの使命を果たすまで、帰星も連絡も不要だと言われましたから」
ゾリアンの射殺すような視線に睨み返そうとするが、王女の瞳は揺れ、今にも涙が零れそうになっていた。
「なかなか良い眼をするようになりましたね」
ゾリアンの言葉に、後ろの男どもが下卑た笑い声をあげる。
ゾリアンは聞こえないように舌打ちをすると、腕を伸ばした。
それは自然に、落としたコップを拾い上げるように、王女の喉を絞めた。
「本当に知りませんか?」
ゾリアンの手に力が込められ、王女の肺から苦し気な息が漏れる。
「助けて!」
水中から酸素を求めて顔を出すように、必死に叫ぶ。
王女の声は暗い暗い路地へと木霊する。
黙れというようにゾリアンは、王女の首をさらに絞める。
「本当に知らないのか」
王女は辛うじて動く首を左右に振る。
パッと、王女を絞めていた手が放された。
首元を抑えて、咳をする王女に背を向けたゾリアンは四人の男たちに言う。
「殺すな。利用価値はある」
すると、男たちの目には欲望に満ちた光が宿る。
顔を上げた王女の目の前に、牙を剥きだしにしたかのような笑みを浮かべた元部下。
肉体のみ同じで、その中身はすっかり別人となってしまった。
その元部下は、王女のドレスに手をかけようとする。
「無礼者」
その手を掴みあげ、捻る。鯉が跳ねる絵画のように美しく回転し、男はひっくり返る。なかなか見事な腕前であった。
やられた男は怒りと恥ずかしさに顔を赤くするが、周りの男たちは嬉しそうな笑みを浮かべ、王女の背後へと回り込み羽交い絞めにする。
動けない。
必死に逃れようと身体を左右に動かし、バタバタと足を動かす。
だが、ドレスの裾が舞い、必死な顔を見せる王女の姿は、男たちの欲望を増長させる以外の成果はなかった。
「い、いや! ワタクシは、シーワン星の王女! シャロム・ア・ファロンですわよ!」
男たちは僅かに顔を見合わせると、ネバついた笑みを浮かべる。
「おうおう。そうかいそうかい」
「プリンセスって、肩書きだけ持ってても何も意味ねぇな」
「ま、たっぷり楽しませてもらおうか」
「生きてさえいればいいんだからな」
王女シャロムのドレスはゆっくりと広げられる。
足を抑えられ抵抗は出来ない。
助かる希望を求めて、ゾリアンへと視線を送る。
しかし、ゾリアンは背を向けてどこかへと歩きだす。
シャロムの思考が一瞬停止した。
だがすぐに自分の身に迫る危険に抵抗を試みる。
「や、やめて! やめてください!」
懇願するような悲鳴が響き、男たちは我慢できないとドレスを引き裂こうとした。
だが―――。
「……あれ?」
ドレスを掴もうとした男は間抜けな声を出した。
コップを掴もうとしたら、コップを倒して水を零したような理解できないという声。
何が起こったのかと、辺りをよく見ようとした瞬間、男の意識は刈り取られた。
糸の切られた人形のように、顔面に拳を受け、力なく崩れ落ちたのだ。
シャロムを羽交い絞めにしていた男たちも次々と地面に伏していく。
ゾリアンの足が止まる。
誰だ。そう問う前に、ワインレッドのシングルベストスーツを着た男が黒髪をなびかせ言う。
「俺の名はナンバーフォー。タフでクールな風来坊。助けを呼ぶ声が、俺を呼んだのさ」
ナンバーフォーと名乗った男は、シャロムへと手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
刹那、シャロムの腰が抜ける。
「おっとっと」
それをナンバーフォーが支えると、お姫様抱っこのような形になった。
「あっ……」
シャロムは小さく声を上げる。
「平気か?」
優しく問いかけられ、つい頬が染まる。
「……はい。ありがとうございます」
「なあに。助けを呼ぶ声が聞こえれば、俺はどこへでも飛んで行くのさ」
キラリと輝くような笑顔。少年とも大人とも取れる無邪気さと逞しさを湛えたその笑顔に、シャロムはすっかりと魅了されてしまった。
吊り橋効果。
その言葉は聞いたことがあった。
かつて母が父をモノにした時に使った作戦だと常々聞かされ、貴方も好きな人が出来たら、ぜひ使ってモノにしなさいと言われたものだ。
しかし、シャロムが自身がその状態に陥っていることなど、彼女自身には分かりようはない。
ただ一つ確かなことは、絶体絶命のピンチにヒーローが現れたという事だけ。
ナンバーフォーと言う男がとても魅力的に見える。
その事実しか分かっていなかった。
ぼうっと呆けたような顔で見つめられたナンバーフォーは恥ずかしそうに頭をかく。
「平気そうだな」
さて帰るか。という風に、ナンバーフォーはシャロムの手を引いて路地から出ようとした。
「お待ちください」
スッと、いつの間にか二人の前に上等な黒のスーツを着たゾリアンが立ちふさがった。
「誰だ?」
「私は王女様に用があります」
ナンバーフォーがチラリと見れば、シャロムは必死に首を左右に振る。
「だってよ。彼女はお前に用はないって」
「私はあります」
「……ほう」
視線がぶつかる。
ゾリアンの手にはいつの間にか拳銃が握られていた。
「危ないな」
ナンバーフォーがシャロムをダンスのようにくるりと移動させる。
すると、先ほどまでシャロムの足があった場所に弾痕が出来ていた。
「おいおい。随分と物騒だな」
まるで鼻歌でも歌うかのような気軽さで、ナンバーフォーはゾリアンを見やる。
ゾリアンは黙って引き金を引く。
シャロムにはダンスの練習をしているようにしか思えなかった。
それほど自然で無理のない動きで、ナンバーフォーはシャロムの体制を移動させ弾丸を避けさせたのだ。
打ち尽くしたのか、ゾリアンは舌打ちをすると帽子を取った。
動物的な瞳が、ナンバーフォーを睨む。
「まったく。こんな事してる場合じゃないんだけどな」
ナンバーフォーは忘れ物を思い出したかのように呟く。
いや、実際ナンバーフォーの心には、目の前のゾリアンなど入っていない。
すぐにでも財布を取った女を追いかけたいところではあるが、助けを求められては仕方がない。
「ま、いいか。すぐに追いつけばコインも文句言わないだろ」
あくびでもしそうなのんびりとした言葉。
刹那、ナンバーフォーの姿が消えた。
そして、ゾリアンの顔面一センチの所に拳が迫っていた。
だが、動かない。
拳はゾリアンの顔面を捉えることなく、その直前で止まっていた。
「へえ、やるな」
ゾリアンの両手が、ナンバーフォーの拳を抑えている。
と、次の瞬間。ナンバーフォーの腹に衝撃が加わる。
ゾリアンの足は動いていない。手はフォーの拳を抑えるのに両手を使っている。
ならば、どこから?
ゾリアンの腰から伸びる紐のようなモノ。
「尻尾か」
「ええ。今まで隠して生きていました。けれど、もうその必要はありません」
ゾリアンの尻尾を見て一番驚いたのは、シャロムであった。
女王である母親の親衛隊をしている頃からゾリアンのことは知っていたが、それが人間でなく、獣人。人型知的生命体だとは全く気付いていなかったのだ。
そんな驚愕を読み取ったのか、ゾリアンは自嘲気味な笑い声を上げる。
「だれも、優秀な私を獣人だと思わない。だが、尻尾を出せば、どれだけ優秀で尽くしてこようとも、汚らわしい獣人としか見なされない」
ゾリアンが帽子を取れば、頭の上にはネコ科動物の耳がある。
フォーは拳を引き、僅かに距離をとる。
ゾリアンは両手を地面につき、肉食獣が狩りをする時のように低い姿勢をとる。
「汚らわしい獣人?」
フォーは特に構えなどをとっていなかった。まるで散歩でもするかのようにゾリアンへと近づく。
「そうだ。獣人であるだけで、その者が誰であるかは関係なくなる。獣人かそれ以外か。獣人であれば、私のようにどれだけ優秀でも、蔑まれ、行き場をなくす」
ゾリアンは恨みの言葉を叫びながら、フォーへと飛びかかる。
二手二足からの跳躍は、人間の目に追えるスピードではない。辛うじて、その姿を捉えたとしても、反応し動くことは不可能。
それが獣人と人間の差である。
種族の絶対的な力の差なのだ。
ナイフのように輝く牙が、フォーの喉元へと迫る。
「それは、お前のせいだろ」
だが、それはいとも簡単に捕らえられた。
フォーは片手で、ゾリアンの首を掴み、暴れるゾリアンをものともせずに掴みあげていた。
「お前が悪いことするから、普通の獣人まで悪くみられるんじゃないのか? それにお前が優秀って、優秀なら人攫いみたいなことしないだろ」
「貴様に、何が分かる。私の、我々の辛さなど―――」
「知るか。けど、悪いことはしちゃダメだろうが」
ポイと投げられたそれは、擬音にしては高速で、物凄いスピードで飛んで行く。
ボールのように飛んで行ったゾリアンは壁にぶち当たってようやく地面に落ちる。
「貴様」
睨む眼光は鋭いが、その身体は負傷し満足に動けないことが見てとれた。
「まだやるのか?」
面倒くさそうに尋ねるフォーに無言で突撃してくるゾリアン。
勝負は見るまでもなかった。
顔面を鷲掴みにされたゾリアンが手足を無茶苦茶に動かすが、逃げれはしない。
「なあ、こいつどうすればいい?」
釣った魚を逃がすか食べるか悩むように、フォーはシャロムへと問う。
「……勇者」
「ん?」
「い、いえ。何でもありませんわ」
シャロムは逡巡の後、すぐに答えを出す。
「捨て置いてください」
「いいのか?」
「はい。ワタクシはフォー様に守ってもらいますから」
「……フォー様?」
「はい。ワタクシは確信しました。我がシーワン星に伝わる伝説の勇者。それはまさしくフォー様であると」
「伝説の勇者? うーん。良い響きだな」
素晴らしい言葉の響きに聞きほれていると、フォーの耳に嫌な怒鳴り声が響く。
「ナンバーフォー! ようやく見つけたぞ」
それはゾリアンでも、シャロムでもない野太い声。
野性的な荒々しさを含んだその声の持ち主は、ゴリラであった。
「ゲッ」
身長三メートルはある巨躯。黒い毛に真っ白なスーツをビシッと着込んだジェントルマン、いやジェントルゴリラであった。
「ナンバーフォー。今日こそ貴様を捕まえてやる!」
その巨躯に対し、意外と軽やかな足さばきで迫りくるジェントルゴリラ。だが、その胸板から発せられる威圧感は半端じゃない。
「やばやば。逃げるぞ」
「え、は、はい!」
フォーはシャロムを小脇に抱えるようにして運ぶ。
「貴様! とうとう人攫いまでやるのか!」
「違う! そんなんじゃない!」
「何が違う! その少女を離せ! これ以上罪を重ねるな!」
「これ以上ってなんだ。俺は何にもしてない! そもそも、どうして俺を執拗に追いかける」
「貴様はとんでもないことをしてるんだぞ。大人しく捕まれば、俺が上にとりなしてやるぞ」
「上? とりなす? なんのことだ。てか、とんでもないことってなんなんだよ」
「それが知りたきゃ大人しく捕まれ!」
「断る!」
すたこらサッサとフォーはシャロムを抱えながら超スピードで走って逃げる。
シャロムは余りのスピードに目を白黒させて、背後の白と黒のゴリラを眺める。
「大丈夫か?」
「ええ、平気ですわ」
「よし」
フォーが頷くと割り込むように背後から、ジェントルゴリラの声が響く。
「止まれ! 止まらんか!」
「止まってほしけりゃ美味いもんでも用意しろ! 大体、お前は何なんだ! いっつも俺を追いかけやがって、残念だが俺は心に決めた人がいるんだ!」
フォーがそう叫んだ時、僅かに顔をしかめたのをシャロムは見逃さなかった。
ナンバーフォーの脳裏に浮かび上がる幻想。
もう叶うはずのない夢の世界。
自分が殺した彼女と仲睦まじく過ごす姿―――。
フォーを現実に戻したのは、ジェントルゴリラの声であった。
「仕事だから! 他意はない!」
「人を追いかけるのが仕事かよ」
「俺だってこんな仕事こりごりだ。さっさと帰って秘伝のバナナを食うんだ」
そう言ってジェントルゴリラは走りながら懐を探ると手錠を取り出した。
気づけばそこは袋小路。ビルとビルの隙間は、監獄のように冷たく巨大な壁で行く手を阻む。
唯一の道は目の前のジェントルゴリラが鎮座する場所のみ。
「俺は捕まる筋合いはないんだが?」
「自分の胸に、いやその抱えている少女を見ながらでも同じことが言えるか?」
「言えますわ!」
答えたのはフォーではなく、シャロムであった。
「貴方は勘違いしていますわ。フォー様はワタクシを助けてくださったのです。ですから、フォー様を追いかけるのはお門違いですわ」
それを聞いたジェントルゴリラは笑った。
しかしそれは大口を開けて愉快だというような笑いではない。まるで巨大な陰謀を画策しており、その通りになったとでも言うような暗い嬉しさを込めた笑みである。
スッと真顔になったジェントルゴリラは問う。
「ナンバーフォー。この世界はおかしいと思わないか?」
「……どうゆうことだ」
「獣人であるオレがお前を追いかける。そのことに疑問は持たないのか」
「疑問? それならさっきから言ってるだろ。何で俺を追いかけてくるんだって」
ジェントルゴリラは徐にポケットからバッチを取り出した。
「宇宙特殊警察秘密部隊隊長。それが俺の役職だ」
「つまり、俺は警察のお偉いさんに追いかけまわされてるわけか」
困った困ったと肩をすくめるナンバーフォーに、ジェントルゴリラは問う。
「それだけか」
「?」
「本当にそれだけか。獣人のオレが、人間の形であるお前を追いかける。獣人が宇宙特殊警察の隊長をやっているのに、疑問はないのか」
それはまるで確認だった。
踏み絵、とでも言うのか。まるで何かを期待して問うているとしか思えない。
「獣人ってのはそんなに重要なのか?」
ナンバーフォーの答えはある意味で求めており、だがしかし、今聞きたいのは別の答えであった。
「そうか。この世界の不条理に気づかないか」
「? 何言ってんだ」
「いや、いい。貴様を捕まえる」
そういうと、ジェントルゴリラは先ほどまでと同じく、ナンバーフォーを捕まえようと圧倒的な圧力をかけてくる。
一歩一歩ゆっくりと近づいてくるジェントルゴリラ。その場から一歩も動かないフォー。二人が考えていることは同じであった。
この場から逃げる方法。
正面突破は無理だろう。フォー一人ならば何とかなるかもしれないが、今はシャロムを抱えている。ジェントルゴリラの筋骨隆々な肉体に押しつぶされればひとたまりもない。
「さあ、観念するんだな」
ジェントルゴリラはすり足でじりじりと距離を詰めていく。両端を抜けるには十分なスペースは空いているが、迫力がそうはさせない。
後ずさりをするフォー。だが、その目は怪し気に光っている。おそらく対ジェントルゴリラ戦術を使うのだろう。
コソコソとシャロムに耳打ちをすると、無防備に近づいてゆく。
「どうした。捕まる気になったか」
「流石の俺も、お前と正面から戦うのは気が引けるからな」
ジェントルゴリラはよしよしと出した手錠をフォーにかけようとしたその時―――。
「あっ」
シャロムが驚いたようにジェントルゴリラの背後を指さした。
「で、伝説の……ミラクルバナナですわ……」
ピクリと、ジェントルゴリラの動きが止まった。
そう言えば、どこからか甘い香りが漂っている。もしやこの香りはミラクルバナナなるモノじゃなかろうか。
気になったら止まれない。
ゆっくりと、フォーに悟られないように頭を動かして……
「じゃあな。また会おうぜ!」
その時にはすでに、ナンバーフォーはシャロムを小脇に抱えてジェントルゴリラを飛び越して走り去っていた。
勿論、そこにミラクルバナナなどない。
分かっていた。理性では九十九パーセント罠だと分かっていたが、残りの一パーセント。もしかしたらが拭えなかった。それもフォーに言われたらまだしも、あの少女が言うとなると信憑性も増すというもの。
「ナンバーフォー! だましたなー!」
笑いながら消えていくフォーとシャロムの背中。暗い路地にドラミングの音が響いた。
そのドラミングの音は同じく路地にいた一人と一匹にも聞こえていた。
「ちょっと、どうして隠れるのよ」
「まずい。まずい」
ドラミングを聞いたコインが急に背中に隠れようとするが、女はそうはさせない。ずっと付きまとわれていた腹いせに、右に左にコインを避ける。
「ばか。ばか」
パタパタと羽が飛び、随分遠い所からゴリラがこちらを見た。
「? ……! そのオウム。まさか!」
そして、物凄いスピードで女に突進してくる。その迫力たるや。無関係の女でさえ思わず逃げてしまうほどだ。
「またんか! 貴様も仲間か! 誰だろうと容赦はせんぞ!」
「逃げろー! 逃げろー!」
女はコインの声に反応して思わず逃げてしまう。だが、たとえコインの言葉がなくとも逃げていただろう。なぜなら迫ってくる白スーツのゴリラは悪人ずらで、しかもなぜか怒りに打ち震えている。それはまるで今まで追ってきた犯人を自分の失態で逃がしてしまった時のような鬼の形相をしていた。
コインはその隙に財布のことなど忘れて逃げようとするのだが、女がコインを追いかける。
「ついてくるなー。ついてくるなー」
「誰に言ってるのよ。散々纏わりついたくせに!」
逃げるコインを追いかける女。さっきまでと完全に逆だ。
「待てー! 大人しくつかまれ!」
背後から聞こえるゴリラの声に、女はダメもとで叫ぶ。
「私は無関係よ。追いかけてこないで」
「ならば、そのオウムを渡せ。そうすれば見逃してやる」
「ちょっとコイン。さっさと来なさい」
「いやだー。いやだー」
逃げ回るコイン。追いかける女。その二人を追うゴリラ。やがて路地を抜け、明るい通りに出る。そうなれば自然と目立つ。
時刻にして深夜。しかし、この夜の星には時間など意味を持たない。あるのは腹時計のみ。通りには寝っ転がる酔っ払いから買い物客まで、そしてオウムを探す男と少女の姿もあった。
「あ! 俺の財布返せ!」
フォーはやっと見つけた女に正面から駆け寄ろうとして、背後の存在に気付き止まる。
百八十度方向転換。フォーは全速力で探し回ってきた道を戻る。そうはさせないのがコイン。そして女。
フォーはコインに向けて叫ぶ。
「おい、コイン。財布は」
「……。……」
「おいー。何やってんだよ」
「それどころじゃない。それどころじゃない」
「てか、なんであの女も一緒に逃げてんだ?」
「仲間だと思われてる。仲間だと思われてる」
「ったく、あのゴリラは見境なしかよ」
「その人ダレ。その人ダレ」
「ああ、えっと、名前は―――」
「シャロム・ア・ファロンですわ」
小脇に抱えられながらペコリと頭を下げるシャロム。ここだけ見るとただの自己紹介かもしれないが、背後には財布を盗んだ女とジェントルゴリラが追いかけてきている。
「ったく、しょうがない。コイン。バナナを買ってこい。それでつるぞ」
「お金は。お金は」
「金は……あの女が持ってる」
「……。……」
「あー、もうめんどくせー。コイン、強攻策に出るぞ。パターンCだ」
「パターンC。パターンC」
「いいか。一二の三」
「突撃! 突撃!」
その言葉共に、フォーとコインはくるりと向きを変え、女に向かって走る。その後ろにはゴリラが迫っており、このままいくとゴリラの強靭な胸板に押しつぶされるだろう。
驚いた表情の女をシャロムと反対の腕で捕まえ、油断大敵という顔で待ち構えるジェントルゴリラを飛び越える。
そう、普通に飛び越えた。
「ぬわにー!」
大口を開けるジェントルゴリラの喉の奥までよく見える。フォーは華麗な跳躍中にカッコいい、と思っているポーズをとって、その肩をコインが掴んで羽ばたいていた。
一ドットずつ動く大昔のゲームみたいな動きで、ジェントルゴリラの三メートル先へとたどり着いた。
「コイン、よくやった」
「ごはん大盛り。ごはん大盛り」
「よかろう」
呑気な会話をしている暇はない。フォーの腕の中でポカーンとしている女とキラキラと目を輝かせるシャロムはいいが、ジェントルゴリラはすでにこちらへ走り始めている。
「退却だー」
「退却ー。退却ー」
すたこらっさっさと逃げていくフォーとコイン。抱えた二人などいないような軽い足取りで、あっという間に消えていった。
ジェントルゴリラは途中で追いつけないと諦め、細い腕輪型の無線で部下へと連絡を回す。
「奴はこの星を出るだろう。星間ゲートを見張っておけ。履歴を見るのも忘れるな。それと冷凍庫に入れておいた秘伝のバナナを出しておいてくれ。以上だ」
「リゴーラ隊長。バナナは隊長が後で食べると持っていきましたよね」
「な、に? ……」
ジェントルゴリラもとい本名リゴーラ・ラリゴはポケットを探る。宇宙特殊警察秘密部隊の隊長バッチ、手錠、ポケットティッシュ、行きつけのバーの割引券、財布、それから潰れたバナナ。甘い香りが辺りを支配する。
無言で無線を切り、リゴーラ・ラリゴは潰れたバナナを口に放り込む。
「……ナンバーフォー」
まるで祈るように、リゴーラ・ラリゴは夜の星に溢れる儚い光を眺めるのであった。
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