2.夜は長い

 吐瀉物と、汗と涙と血液の海から頭を起こすと酷い臭いがした。

 身体が重い。頭が痛い。きもちわるい。意識は未だに覚醒してなくて、頭の中には霧。

 それでも、何かに突き動かされるように身体は動いた。這いずるように動いて、服を汚しながら、なんとかメナの元にたどり着く。


「メナ、おきて、メナ」


 ゆさり、ゆさり。

 もう死んでいるのかもしれない――なんてことを考えながら、狩られた獲物のように重くてぬるいメナの身体を何度も揺らす。

 ゆさり、ゆさり。

 ゆさり、ゆさり。

 何回か繰り返すと、「んぅ……」とほんの少しだけメナの声が漏れて、少しずつ目を開け始めた。


「メナ……! よかった……」

「レ……イア? なにが、あったの? 私、生きてる?」

「うん。……なんとか。でも、外はわかんない。……わたしたちしか、生きてないかも」


 家の外は静まり返っていた。真夜中の闇にそのまま呑み込まれたようで、一歩踏み入れたら帰って来れなくなりそうだった。


「どうしよう、メナ」


 わたしに勇気はなかった。

 いつも怠惰で、成り行き任せ。こんな非日常が突然訪れるなんて思ってもみなくて、何をすればいいのかわからない。

 嫌に心が落ち着いているけど、それだけが救いだった。


「どうしよう。わたしたち、死んじゃうのかな」


 涙が溢れてくる。

 さっきまでは、なぜか身体は動いた。でも、もう動かない。動けない。このまま、朝が来るまでじっとしていたい。


「……泣かないで、レイア」


 そんなわたしでも、メナは優しく抱きしめてくれる。


「平気よ。この程度、なんとでもなるわ」


 ……手が震えている。声が震えている。指先はひんやりとしていて、メナも恐怖のどん底にいるのがわかる。それでも、わたしのために、強く振る舞ってくれている。

 メナのその姿に、勇気を貰った。


「……ごめん、メナ。ありがとう。そうだね、なんとかなる」

「そうよ。私たちならどうにかできるわ。……まずは扉を固く閉めるのが大事ね。机でも、売り物でも、なんでも積み重ねて、外から入れないようにしましょう」

「うん。わかった。力仕事は任せて」


 そっと、わたしたちは店の方へと向かった。通りに面している、大きな扉がそこにはある。外がどうなっているかわからないけど、絶対にろくな事にはなっていない。

 息を潜めて、足音を忍ばせながらゆっくりと歩いた。

 外は静かだった。


「よかった、誰も入ってきてない」

「そうね。なるべく早く動きましょう。朝になればなんとかできるわ。今晩をなんとか凌げれば……」


 ――唐突に、扉を叩かれた。

 わたしたちは息を呑んで、扉の方を向いた。誰だ。


「おおい、開けてくれ! 外が酷いんだ……頼む、助けてくれ……」


 掠れた声が聞こえた。弱々しくて、死にかけている。そんな声だ。

 わたしたちは声を出さずに、視線だけで意志を交わした。目の前に助けられる人がいるのに、見捨てる訳にはいかない。


「おおい、開けてくれ!」

「待ってて! すぐに開けるわ」


 メナと目配せを交わし、わたしはこくりと頷いた。

 メナは、あの「魔法の杖」を壁から取って手に握った。開けたところには弱った人間がいるだろう。けど、こっちは女が二人。武器が無いと抵抗なんてできない。


 扉を開けると、静かな夜闇に音が響いた。やっぱり外は暗闇ばかりで、わたしたち以外の音はしなかった。

 目の前には夜闇が広がって――おかしい。誰も居ない。


「あれ?」


 不思議に思って、声が漏れた。


「外が酷いんだ――」


 下から声がした。

 足元に視線を向かわせると――

 

 ヒトの顔を持った、羊がいた。

 いや、ヒトの顔かはわからない。でも、髪があって、鼻があって、口がある。

 ただ、目がない。あるべきそこには、真っ暗な穴だけがある。

 また、羊が口を開いた。声を発した。


「頼む、助けて――」

「レイアッ! 離れてッ!」


 メナの声で我に返った。すぐに飛び退いて、扉を閉めようとすると、羊の脚が強引に差し込まれた。

 柔らかくて、硬い。きもちわるい感触が扉越しに伝わってきて、嫌な音がした。骨が折れたみたいだ。


 それでも、入ろうとするのをやめない。もう片方の脚を差し込み、扉の隙間を広げようとする。

 力一杯に押しても、押し負ける。扉が開いていく……!


「メナっ……! 手伝って……!」


 わたしがメナに助けを求めると、メナは扉のすぐそばに来た。そしてそのまま杖を振りかぶって、


「はあああっ! ……っ!」


 鈍い音と共に、羊の頭を打ち据えた。

 人間よりも柔らかいのか、頭がへこんだ。そのまま羊は倒れて、わたしもようやく扉を閉めることができた。


「メナ、ありがとうっ!」

「いいのよ、レイア……それにしても、なんなのかしら、くっ……」

「メナ!? どこか痛いの?」

「ええ。何かを殴るなんて初めてだから。手が、痛くて……」


 とっさにメナの手を握った。

 固く握りしめられたままで、指を広げようとしても広がらない。指先は氷みたいに冷えていて、荒い息を吐きながらメナの身体は震えていた。


「メナ、ありがとう。大丈夫だよ。お陰で助かったよ、だから落ち着いて……ね。落ち着いて……」


 メナを抱きしめて、優しく頭を撫でてあげた。さっき、メナがしてくれたように。

 徐々に緊張が解れていって、メナはいつもの状態に戻っていった。


「ふーっ……。ありがとう、レイア。落ち着いたわ。……それで、なにかしら。アレは」

「わかんない。でも、人の言葉を話していた――けど、目がないし、身体が羊だった……あっ」


 その瞬間、遠い記憶がわたしの頭によぎった。

 物心が着いてすぐ。まだ、わたしの両親がまともだった時のこと……


「レイア?」

「もしかすると。……あのね、わたしのお母さんが話してくれたんだ。寝る前に、わくわくする冒険の話で。それで、その時に聞いたことがあるんだ。化け物に変えられた人を元に戻すお話でね。その化け物の見た目が」


 人の顔を持ち、動物の身体を持つ。

 そう言われていた。


「……まさに、アレってことね。って、だとすると」

「……たぶん、人だったんだ。あの頭痛と吐き気、それを生き残れなかったら、アレになっちゃうのかも」


 メナを抱きしめたまま、わたしは、絞り出すように囁いた。


「うそ、でしょ」


 メナの身体がまた震え始める。

 人を殺してしまった――その感覚が、実感を持って全身を駆け巡ったんだと思う。


「うっ……おえっ」

「メナ、大丈夫。仕方なかったんだよ。わたしたちは、ああするしかなかった」


 メナの背中をさすりながら、落ち着けるようになんとか言葉をかける。上辺だけのなんの解決にもならない言葉。それでも、それにしか縋れない。


「うぅっ……レイア……」

「よしよし。どうしたの」

「……怖い。逃げたい」

「そうだね」

「……一緒に、いてくれる?」

「ずっとだよ」

「……私、人が好きなの。たくさん話して、その人のことを知るのが好きなの。その人の人生を知るのが好きなの」


 メナは、心の中の膿を吐き出すように話し始めた。

 ……相変わらず、外は静かだ。どんな光も現れない。闇が支配している。


「誰にだってそうだったわ。でも、それは……化け物に変わってしまった人にだってあったわ。それなのに、化け物になって、あっさり私に殺されちゃった。……なんで私たちは生きてるのかしら?」


 メナがわたしに問いながら、こちらを覗いてきた。

 瞳は黒に染まっている。暗闇の中でもわかるくらいに、黒だ。

 なぜかはわからないけど、メナのこの沈んでいる感情をどうにかしないと、取り返しのつかない事になってしまいそうな感じがした。


「……メナ。わたしの言うことを聞いて。……希望を持って! わたしたちは絶対に死なない。二人一緒なら、ずっと生き延びていける! ……わかった。だからわたしたちは生き残ったんだ」


 必死なわたしの言葉を聞いて、メナの瞳が元の美しい瞳へと戻っていった。……良かった。


「……どうしてなの?」

「単純だよ。わたしたちは幸せで、誰よりも希望を持ってた。それだけ」



 朝日が登ると、気力が湧いてきた。

 早くロゴスから逃げないと。


 アンドロスさんから戦争の話を聞いたことがある。市民の義務だから、何度か行ったことがあったらしい。

 街は瓦礫になって、焼けた死体の臭いがして最悪だと言って……わたしとメナは、夜中眠れなくなったのを覚えている。よく考えると、少女にそんな話をするなんて結構ひどい。


 だから、外もひどいことになっていると思っていたけれど、そんなことは無かった。ロゴスは綺麗なままで、荘厳な神殿は今も都市を見下ろしている。

 ただ、死体はあった。

 腕を千切られていたり、首を噛み切られていたり。目があったり、なかったり。

 なるべく見ないようにしながら、わたしたちは慎重に、ロゴスの門へと向かっていった。


「着いたね」

「……そうね」

「メナ、アンドロスさんは……」


 眼前に聳えるロゴスの大きな門。様々な言葉ロゴスが彫られていて、ロゴスの象徴でもあった。いつもは人が沢山いる。それなのに、今は誰もいない。

 わたしはメナにアンドロスさんのことを聞いた。道中では意図的に避けていたけど、この門から外に出たらもう二度と戻ってくることはないかもしれない。

 日が昇ると化け物は動かないみたいで、一匹も見かけることはなかった。今はたぶん、建物の中に潜んでいるんだと思う。


「……今は無理ね。生きていても、……そうでなくても。あの化け物たちがどこに潜んでいるかわからない以上、早くロゴスを出るべきだわ」

「……そっか」

「今は、よ。強くなって、人を集めて、いつか取り返しに来ましょう……必ず」


 メナの瞳は、夜中のような不安に揺れていなかった。むしろ、決意と情熱の火が灯っている。


「うひゃっ!?」


 どこか危なげな感じがして、少し怖かったから抱きつくと、いつものメナが戻ってきてくれた。

 

「メナ、わたしもがんばるよ。……頼ってね?」

「……もう。もちろんよ、最初からそのつもりだわ」


 かわいい恋人に戻ってくれたご褒美に、頬に口付けた。


「ふぇっ!?」

「昨日の続き、落ち着いたらしようねっ」


 恥ずかしさをかき消すように、わたしは言い放った。


 ロゴスの近隣で一番安全な場所は、学園長が運営している学園アカデメイアだ。

 あの人は魔法使いだし、生き延びたはずだ。それならアカデメイアもきっと無事なはず。

 向かおう、アカデメイアへ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る