天女の羽衣
羊屋さん
1匹の蝶に与えられた仕事
僕は人間だった。
今は、自分が人間の頃には名前も知らなかったような、薄い色の翅の蝶である。
最近は暑くなってきたと感じていた。屋外に出ると日光が眩しすぎる。
なのに、今では屋外に入るや否や人間たちに振り払われ、ありとあらゆる手段を用いて殺されそうになる。あまりに苦しい状況だ。
雨が降ると湿気で翅が重くなるのを感じる。昼間は鳥たちも怖い。
「あ、自分は虫になってしまったのか」
周りにいる翅が同じ柄の蝶たちを見て、夕立のあと水溜まりに映る自分の姿を確認して、それに気がついたときも不思議と絶望はしなかったのだ。
以前はもっとネガティブな人間だったと思う。昆虫が持つ、生きること、子孫を残すことに対する性質で打ち消されたのだろう。
そんなことを今日の昼間は考えながら、建物の陰にある葉の下で過ごした。
赤い夕陽が沈み、夜が来た。
僕たちは暗闇で飛び回り、近くの花の花粉や蜜を食べる。
仲間たちの中には、コンビニエンスストアの誘蛾灯に引き寄せられ焼かれてしまう者もいたが。
残り短い命をどこで終わらせようか……。
ふらふら飛んでいると、小さな光を見つけた。以前住んでいたアパートの、自分の部屋の玄関灯だ。付けっぱなしにして外出したんだったな。
翅休めにそこにとまっていると、深夜にお隣さんが仕事から帰ってくる音がした。
「あれ?君ウスバシロチョウじゃない?」
そう、お隣さんは虫に詳しい。家の中に発生した虫の退治をよく手伝ってもらったっけ……。
そして自分が人間に呼ばれるときの名前をようやく知った。
「いや、ウスバシロチョウにしては小さめかな……でも模様の入り方が綺麗な個体だなぁ……ウスバシロチョウはこの時期珍しいし……」
ふーんと思いながら聞いていた。
「連れて帰るか」
ん??
お隣さんは家に入って少しすると虫取り網とケースを持ち僕の前に来た。
「ちょっとおとなしくしてなねー」
自分は元人間なので特に暴れる理由もなかったし、おとなしく捕えられ、少し狭い空間に入った。
それに、お隣さんなら美味しいものくれそうだし。
「ただいま!」
玄関の扉がバタンと閉まる。
ワンルームに通じる廊下は潰した段ボール箱がたくさん立てかけられていたもんだから、「ああ、お隣さんお仕事忙しいんだな」なんて、虫になってから知ることになった。
「新しい仲間だよ〜みんな〜」
ワンルームに連れて行かれると、なんと虫の飼育ケースが数十個は並んでいた。
「この子はどこに居てもらおうかな?」
トンボの横はやめてほしいな〜!と思いながらヤゴのケースをチラチラ見た。
「君は蝶だからこの辺で」
カバーがかけられたケースの横に置かれ、自分の入ったケースにも布がかけられた。
正直、自分には蛍光灯は眩しすぎたのでちょうど良い。この身体になってから、光に向かって勝手に飛び回ってしまうものだから。
「あ、そうだ」
お隣さんはワイシャツとスラックスの格好のまま玄関を開けて外に出て行った。鍵も閉めずに。
暗くて落ち着くケースの中で耳をすますと鈴虫の声も聴こえた。
いやぁお隣さん、虫に詳しいとは知っていたけどこんな部屋に住んでいたんだな。世話も大変だろうに。
しばらくしてお隣さんが帰ってきた。
「はい、ポピーの花と葉っぱ。警察に枯らされてなくてよかったよ」
食事をとってきてくれたらしい。
ポピーってケシの花じゃなかったっけ?そんな植物漁ってきてお隣さん通報されたらどうするんだろう……と思いつつ蜜を吸う。
「にしても君、なんで夜に飛び回ってたのかな。毒を蓄えるから鳥に襲われないはずだし、日中も飛べるはずだけど……」
そうなの?虫になったばかりだから知らなかった……。
「まぁ、たまに鳴き方が上手じゃない鳥とかいるし、そんな感じなのかな」
よいしょ、と姿勢を変え、お隣さんは他の虫たちの世話も始める。たまに、イテッ!とか、逃げるなー!とか聞こえる。齧られてるのかな。
「今日は天女の羽衣さんもお迎えできたし、俺はもう満足だな〜、みんなおやすみ」
部屋の明かりが消えた。
==========
ぼんやりしていたら、朝が来た。とは言っても、ケースにカバーがかけられているのでお隣さんの独り言で朝に気がついたわけだが。
飛び回れないと、暇だな。
野生の昆虫を捕まえて飼育するなんて人間はすごい生き物だなぁ、と考えたり。
自分も小さい頃実家で野良猫を捕まえて飼っていたけど、こんな気持ちだったのかなぁって。
お隣さんは僕や他の虫たちのケースのカバーを取ってカーテンを開け、指差し確認して仕事に出て行った。
陽が出ているから眠ることもできないし、昨晩取ってきてもらったポピーの蜜をまた吸う。
人間の頃は毎日2箱たばこを吸っていたけれど、こっちの方が美味しいな、と思ったりする。
仕事も勉強も通勤もせず、花の蜜を啜りながらぼんやりするだけの毎日に慣れるのはいつ頃なんだろう。そもそも自分以外の虫は何を考えて生きているんだろう。
隣のケースにはカブトムシがいるが、土の上をのしのしと歩き回ってゼリーに吸い付いたりしている。
昆虫は確かフェロモンで意思疎通をはかるんだったか……。お隣さんからいろいろ聞いておけばよかったなと今更ながら後悔した。それに、仲間の蝶と意思疎通をする前にすぐ捕まってしまったから、もうお隣さんの独り言を聞くくらいしか自分にわかる言葉はないんだろう。
太陽がてっぺんにのぼる頃、大雨が降り出して空が暗くなった。部屋の湿度が上がり翅が重いので少し萎れてきたポピーの葉にとまり、ぼんやり眠っていた。
いつの間にかお隣さんがびしょ濡れで帰ってきて、タオルを片手に虫たちみんなに話しかけていた。餌を取り替えたり、ケースの掃除をしたり、僕には新しいポピーを持ってきてくれた。
感謝すら伝えられないのはもどかしいなと思うが、僕の部屋のシロアリを退治してくれたときとは違いニコニコして眺めてくれるので、ここに居るだけで親(?)孝行なのかなと思うことにする。
「あのねぇ、君のごはん用にムラサキケマンを買ってくるから少し辛抱しててね」
自分が何を食べられるのか何も知らないので、どういう意味かわからない。言葉で返事ができないので少し翅をぱたぱたさせてみた。
「ポピーだけだと今後心配だからね」
今後も何も、この家でずっと過ごすつもりなのにな。
==========
数日後、お隣さんは花屋さんで買ってきたらしい綺麗な赤紫色の花を見せてくれた。
「おまたせしたね!これがいちばん君のごはんにぴったりなんだよ」
よくわからないが、ぱたぱたして見せた。
花をひとつ摘んでケースに入れてくれたので蜜を吸ってみた。味は特にわからない。
「やっぱりこの色合いが最高だね〜花屋5軒探し回った甲斐があったよ」
「あとさ、君たしか、
もうお腹いっぱいなんだけどな……。
「幼虫じゃないから食べないかなー」
食べれるっちゃ食べれるんだろうけど、今日はもういいや……眠いし……。
「あと1ヶ月くらいかけてゆっくり食べてくれればいいよ」
お隣さんはまた他の虫たちと話し始めた。
「この子はまだ幼虫だからベランダにキャベツ置いて離して……カブトムシは近くの林に連れて行こうかな……ヤゴはあの川がいいかも」
ちゃんとキャッチアンドリリースもしてるんだ。僕もいつか離されるのかな。そもそも僕の寿命ってどんくらいなんだろ。
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毎日毎日毎日毎日……赤紫色の花を食べろと言われる。人間の言うことを聞く蝶なんておかしいとは思うが、仕方ないので面倒でも毎日花びら1枚ずつ食べている。蜜だけで良いのに。
それから、部屋の虫たちのケースがどんどん空になっていく。僕含めてあと3つくらいしか残っていない。
お隣さんは、理由は知らないけれどここ1週間くらいずっと家にいて、僕らの世話をしてくれている。長期休暇だろうか。
「もう少しで引っ越すからそろそろお別れだよ」
お、そろそろ僕も外に帰ることになるのか。仲間たちと馴染めると良いけど。
「今日はカミキリムシ君とクワガタちゃんをリリースしてこようかな」
僕が最後なんだ。
「天女の羽衣さんにはお仕事があるからね〜よろしく頼むよ」
天女の羽衣って僕のことだったんだ。
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1週間後の朝、お隣さんの部屋には僕しか虫がいなくなった。
「そろそろかな」
お隣さんは窓とカーテンを全開にし、僕のケースの蓋を開けた。蓋の横に赤紫色の花を置いてくれたので、そこにとまってみた。
「好きなときに出て行っていいからね、ちゃんと毒蝶になれたと思うから。じゃあ、あとはよろしく」
そう言って、お隣さんはソファに寝転んだ。
お腹が空いていたので蜜を吸い、どうせだからと思い花びらをゆっくり齧った。
食べ終わって部屋を見ると、寝転んでいるお隣さんの顔色が悪い。
様子を見に行くと、呼吸をしていないようだった。
僕の仕事って、これか。
人間のときも合わせると5年間は付き合いがあった、名前も知らないお隣さん。
涙を流せないこの身体を、恨めしく思う。
明日の夜明けに、飛べる高さまで飛ぼう。
お隣さんがくれた花の毒が僕を守ってくれるから、今度は僕がこの人の魂を守ろう。
==========
昨夜は眠れなかった。
朝焼けが見えたので、お隣さんの手から飛び立ち、アパートの1階から外に出た。
蝶ってどのくらいの高さまで飛べるんだろう……。
昼過ぎまで飛ぶともう周りに建物はなく、太陽の方向しか目指すものがなくなった。
あの光の近くまで、できる限り……。
天女の羽衣 羊屋さん @manii642
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