02 - THIS IS LOVE

 真夜中の三時過ぎ、対向車さえ滅多にすれ違わない二車線道路を僕らは原付のスーパーカブに二人乗りで夜を急いでいた。肌の上を滑っていく、生ぬるい夏の空気。いびつなうねりを上げながら、等間隔に並んだ白色灯を後方へと吹き飛ばしていく。

 持ってきていた自前のパーカーをニーナのパジャマの上から着せて、目立たないようにカモフラージュ。僕とニーナ、外と内から脱走する工作ができたので大変ではあったが無謀とは言えないほどの難度だったのは不幸中の幸いだっただろう。ニーナに朝陽を見せたい、その一心で馬鹿をやらかしているのだ。

 ほとんど初めての外の空気に彼女ははしゃいでいた。運転中じゃ翻訳機も見れない。けれど、しがみつく後ろからの声音だけで十分に理解できる。僕らは頼りないヘッドライトの明るさと、外灯だけを頼りにこの町の小さな浜辺を目指していた。あと二時間もしないうちに空は白んでくる。何も問題はない──何も。


『もしかしたら神様はいるのかもしれません』

「どうだろう、僕はそういうのよくわからないな」

 到着した浜辺は真っ暗闇で、静寂にさざ波の音だけが遠く響いては砕け散っていた。海岸沿いの道路脇にカブを停め、事前に買っておいた懐中電灯の光源だけで砂浜を手を繋ぎながら歩く。見上げると綿菓子の切れ端みたいな雲が夜空に浮かんでいた。

『信じていなかったけれど、私のところにコーヘーが来ました。友達になって、外出をしました。神様はいるのかもしれません』

「ああ、そういうこと……そうだね、いるかも知れないな、神様」

 ニーナの国で信じる神様がいるというのなら、いてもいいだろう。未成年同士が深夜徘徊の不良行為をお目溢ししてくださるのならだけど。

 けれど、神様が許してもパトロール中のお巡りさんはきっと許してはくれない。警官には見つからないようにだけ、僕も何かに願っておくべきか。波の音が少し近くに感じるようになった海と砂浜の真ん中あたりで僕らは腰を下ろした。レジャーシート持ってくるべきだったな、と少し後悔をしたがサラサラの砂浜だったことを思い出して僕は砂を撫でる。

「東京のオシャレなカフェじゃないけどさ、ニーナのためにココア買っておいたんだ」

『ありがとう。コーヘーは優しいです』

 彼女の代わりに蓋を開けてペットボトルのココアを手渡す。どこにでも売ってるコンビニのココア。それでもニーナは嬉しそうにゆっくりと喉を鳴らす。ペットボトルを持つ右手には真新しい包帯が薄く巻かれていた。


***


 それから僕らはどうでもいい会話をした。あの病室でだってどこだってできるくだらない会話だ。スマホのインカメラで二人の写真も撮った。フラッシュで半眼になったものを見て笑い合った。それが何よりも愛おしい時間だった。僕はスマホで時刻を確認する、あと少しで朝が始まるだろう。──夜明け前、世界が一番暗いとき。

『コーヘーに言わないといけないことがあります』

 ニーナは翻訳機の画面を見せる。「どうしたの」と次を促すと、彼女は言葉ではなく右手に巻かれた包帯を静かに解き始めた。外された包帯が足元の砂浜にパサリと落ちる。少し前から隠されていた右手にはいくつかの凹凸おうとつがあり、懐中電灯を向けるとそれは肌色と緑色の中間のような植物の芽らしきものが、手の甲から複数の芽吹いていた。


 植物の芽。


 僕は自分の目を疑った。難しい病気だと訊かされていたが、想定の範疇を越えてしまっていた。その光景に何も言うことができず、そのあいだにも、ニーナは足先や首筋に貼られた絆創膏をペリペリと剥がしていく。その下には当然のように植物の芽が肌から飛び出していた。

『両親にも同じ芽が出ました。住んでいた町の人も同じです。太陽に向かって植物はたくさん成長していきました』

『みんな土になって動きませんでした。たぶん私も同じ病気です』

『だから私の部屋は地下にあります。でも、部屋の明かりでも芽が出てきました』

『コーヘーに嫌われたくなくて隠してました。私は嘘つきです』

『ごめんなさい。ずっとコーヘーといたいです、ずっと』

 まるで、怒られることを怖がるような独白と弁明が何度も画面に映し出される。こんなときにもニーナは笑顔を繕うのだ。今まで見てきた中で一番寂しい笑顔だった。波の音だけが重い沈黙の隙間を埋めている。

「ありがとう、教えてくれて。こんな僕を信用してくれて嬉しいよ」

 言うべきはそうじゃないだろう。彼女を安心させる言葉を必死で考えて、やがてゆっくりと紡いでいく。

「……僕もニーナと最期までいたい」

 本当はもっと頑張れとか、死んじゃダメだとか、そういうことを言うべきなのに、そういう言葉は喉の奥で涙に灼かれたままひとつも出てくることはなかった。僕は医者ではないので、治っているのか悪化しているのか、それさえわからない。目の前には奇妙に晴れやかな眼差しを、微笑みにたたえた幼い少女がいるだけである。正義も倫理もクソくらえだ。僕は彼女がした選択を尊重したい、ただそれだけだった。


***


 砂浜から遠く水平線の際から空の色が変わっていく────。

 だんだんと真夜中から藍色へ。藍色から菫色へと。世界の輪郭が曖昧でなくなっていく時間が訪れる。もう少ししたら菫色から青色へと変わるだろう。

『コーヘーに会えて良かったです。もう少しで太陽が昇ります』

「そうだね、この町で一番最初に綺麗な太陽と海を見るよ」

『ずっと辛かったけど、今は幸せです』

「そっか」

 不意にニーナは立ち上がって、水平線を強く見つめる。何をするかと思えば、いきなりパジャマのボタンを外し始めた。僕は呆気にとられていると、そのままズボンさえも脱ぎ、彼女はキャミソールとパンツだけの姿で仁王立ちをしている。

 日本人では到達しえない色素の薄さと、しばらく日に当たっていないのも相まって病的なまでに白い素肌をしていた。露わになった素肌には至るところに植物の芽が膨らんでいて、そこらじゅう歪にでこぼこしているがニーナにはそれさえも美しいと思わせる強さが在る。白金色の二つ結びを風になびかせながら、全身で朝を浴びようとしているかのようだった。彼女の横顔に儚い覚悟を僕は思い知った。

 少しすると「へへっ」と照れながら子供の、年相応の、無邪気な笑顔で隣に座り直した。華奢な身体を僕のほうへと預けるように寄りかかる。痩せた右腕と指を、僕の左手に絡ませて手を握り合った。

 ニーナの願いが叶えば、僕の祈りは叶わない。

 僕の願いが叶えば、ニーナの祈りは叶わない。

 ……ままならないな、と心の奥でどこかにいるかも知れない神様に毒を吐く。その代わりに唇を醜く噛み締めることしかできなかった。


 やがて青に染まってゆく空の彼方、朝陽をすり潰したような無数の光の欠片が海に乱反射しながら広がっていく。いつものように朝が来る。透き通っていく空気に全ては等しく漂白されて、長かった夜は散り散りに千切れて消えてしまった。

『コーヘー、私のことを覚えておいてください。私もいつまでも忘れません』

「うん、忘れない。ニーナのことずっと忘れないよ、なんたって写真もあるしさ」

『最後のわがままを言いたいです。コーヘー、朝の太陽だけを見ててください。私の姿を見ないでほしいです』

「……わかった。二人でこの町で一番最初の太陽を眺めていよう」

 許されるなら、阿呆のように泣いてしまいたい。けれど、ニーナがそれを望んでいないなら僕だって精一杯強がっていようと思う。水平線の隙間から生まれたての太陽が顔を覗かせる。眩い光が僕らを照らし始めていた。終わりが近かった。


「コーヘー……Любит」

「え、なに? リユービ?」

『それは内緒です』

「なんだよズルいなあ……リユービ、リユービ?」

 僕は意味もわからず復唱した僕の言葉でニーナは見る見る内に顔が赤面していく、それはもう耳まで染まるほどに。

 それと同時に彼女から生えた何かの芽はさらに増えていて、胸元から首筋から頬からも噴き出るように芽を出し始めていた。光合成は始まっている。すでに芽吹いていた手の甲や脚からはシダの葉のような蔦が伸び出していて、タイムラプスのような早さで緑が身体を覆っていく。ニーナは笑顔のまま朝陽を指差し、最後のわがままを僕に伝える。

 もう翻訳機も、言葉も要らない。握った手の平の温かさだけが全てだった。僕は滲んで何も見えない視界のまま、じんわりと昇っていくやたらと眩しい無遠慮な太陽を睨み続けていた。僕の肩に寄りかかる彼女から、か細くも力強い、儚くも堂々たる歌が聞こえてくる。それはいつの日にか初めて地下の病室に迷い込んだときの歌のようにも思える。異国の言葉で綴られる不思議な旋律、どこか懐かしく優しい響き。

 太陽が完全に姿を現すまでの永遠にも似た刹那、ニーナの歌声はずっと朝を賛美しているようだった。


***


 八月、晩夏の朝が降り注いでいる。僕は約束した通り、太陽と海を眺めていた。

 もう彼女の歌はとっくに聞こえない。寄せては引く穏やかなさざなみだけが広がっていた。握ったはずの手の平にも体温は無くジャリジャリした変な感触を残すのみである。僕は全て終わったのだと、約束を守り通したのだと哀しくも誇らしい気持ちでニーナのほうを向いた。

 けれど僕の目線には何もなかった。下を見ると楕円に広がった土塊の山と、それに絡み付くように育った無数の謎の蔦があるばかりだった。脱ぎ捨てられたパーカーとパジャマ、ココアの匂いがするキャミソールとパンツ、彼女だったものが沈黙と共に砂の上にあるだけだった。

「花だ……」

 未知のシダの葉と蔦のあいだからマーガレットのような小ぶりの花がポツポツと咲いている。まるで呪いの塊に咲く小さな祝福。白、薄紫、青色に染まった花たちを見て、僕は何かを許されたような気持ちになった。

 ドクターは感染症ではないと言っていた。真っ赤な嘘だ。祖国の町も、ニーナの両親も、ニーナも同じ植物に侵されて消えて、どこにもいない。いずれ警察やら病院関係者やらがここに来るのだろう。あの初老の医者も、きっと────。

「リユービか……結局教えてくれなかったな。勉強するかぁ、言葉の」

 未来なんて要らない、そう思った僕に少しだけ未来が欲しくなった。本当はニーナを抱き寄せて離したくなかった後悔を抱えて僕はこれからも生きていくのだ。水分を含んだ土塊はまだ乾かずにそこに在る。


 ニーナの願いが叶えば、僕の祈りは叶わない。

 僕の願いが叶えば、ニーナの祈りは叶わない。

 潮風と青空だけの世界が目の前に広がっていた。八月はもう少し続きそうで、世界はもっと続きそうな気がしている。ニーナと僕の物語はあっけなく終わり、僕の人生はたぶんまだ続きそうだ。

 まるで白昼夢のような出来事。けれど、むせ返るような真実だけが朝陽に照らされて隣に在る。嘘みたいな日々が確かに存在していた。独りになった僕は流せなかった涙を一筋だけ頬に伝わせた。


〈了〉

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あなたの願いが叶うなら 不可逆性FIG @FigmentR

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