あなたの願いが叶うなら

不可逆性FIG

01 - ULTRA BLUE

 一番最初に太陽を見ようよ。

 僕はニーナに優しい嘘をついて、色んな機械に囲まれた無機質な鳥かごから解き放ってしまった。安全を確約された場所の外側から、彼女へと手招きをする道化を演じたのには理由がある。生まれたての太陽を、世界の最も綺麗な瞬間を見てほしかったのだ。

「しっかり掴まってて」

 真夜中も過ぎそうな頃、対向車さえ滅多にすれ違わない二車線道路を僕らは原付のスーパーカブに二人乗りで夜を急いでいた。肌の上を滑っていく、生ぬるい夏の空気。いびつなうねりを上げながら、等間隔に並んだ白色灯を後方へと吹き飛ばしていく。

「コーヘー! Так ветрено!」

 背中には彼女の小さなぬくもり。小さくて華奢な腕が僕の腰や腹をがっちりと離さないでいてくれることが嬉しかった。何年も日光に当たっていない真っ白な、少女の痩せた腕。僕はニーナの願いを叶えるためだけに原付を走らせている。未来じゃなく、今さえあればそれでいい。少なくともこの瞬間だけは信頼されている。それだけで先の見えない暗闇を走らせる原動力たりえるのだ──言葉の通じない彼女にどこまで理解されてるかわからないけれど。

 別にそれでも。


***


 間違って押してしまった病院の地下二階から歌声が聞こえた。人の気配のない廊下、蛍光灯の清潔な明かりがずっと先まで続いている。儚い歌声は廊下の二つ先の扉の中から漏れ出ているようだった。


 高校最後の夏、僕ら家族は体調の悪くなった祖父の見舞いという名目で海の近い田舎へと夏休み丸ごと帰省することになった。両親は入院だとかの諸々で忙しそうだったけど、僕にはほとんど関係ないことだ。原付の免許を持っていたので、祖父が使っていたちょっと古めのカブを貸してもらい、田舎町で暇を潰す毎日。祖父の見舞いと田舎町の散策。静寂と喧騒の繰り返し。寄せては引く穏やかなさざなみ。淡々とリフレインする日々に飽きが出てきた一週間ほどのことである。

 好奇心だった、としか言いようがない。目に映る狭い世界の外側から聞こえてきた儚い歌声は、まるで真夏の午後の白昼夢。扉を開けて病院勤務の大人に怒られる数秒のあいだ、僕は夢を見ていたかったのだろう。謝罪と頭を下げて、祖父の病室まで戻ろう。そう思いながら、扉をゆっくり開けた。

「Привет ...... О, Боже?」

 そこには少女がいた。ベッドの上で、白金色プラチナブロンドの長髪を二つ結びのおさげにまとめた白い肌の、外国人の少女がこちらを透き通るようなみどりの瞳で見つめている。パステルカラーのカーペットタイルが敷き詰められた部屋に、商業施設のキッズエリアみたいな遊具やぬいぐるみが並べられている。

「あ、えっと、ハロー……じゃなくて怪しいものでは、いや英語か……」

 しどろもどろになりながら想定していた事態とは違う窮地に言葉が詰まっていると、少女は近くの棚から小型の機械を取り出して、僕の元へと警戒もせず歩み寄ってきたのだった。

「Кто вы, может быть, новый доктор?」

 少女は英語ではないような言語を喋ったあと、その小型機の液晶画面を僕に突き出す。そこには『あなたは誰ですか、新しいドクター?』と書かれていた。慌てて否定しようとすると、それを手で制される。小型機のボタンを押して話すような感じのジェスチャーで促されたので、そのまま彼女に従って「僕は医者じゃない。歌が聞こえたから、気になって入ってしまったんだ。すぐに出てくよ、ごめん」と言って表示された画面を見せる。どうやらロシア語っぽい文字が並んでいるのがわかった。……まったく読めない。

『今、私はひとりです。お喋りしませんか?』

 翻訳の小型機を使ってなんとか拙い会話を成立させる僕ら。患者衣のようなファンシーなパジャマから伸びた華奢な手足と幼い顔つきから、おそらく小学校高学年だと予想できる。小学生と何を話せばいいのだろうか。

「ええと、家族も来てるんでしょ? このままいたら僕、怒られちゃうよ」

『大丈夫、家族いません。毎日ドクターだけ来ます』

 その文字列に僕は胸がキュっと締め付けられる。日本語の話せない外国の少女、普通の病棟でなく地下二階の特別っぽい部屋、誰も見舞いに来ない日々。何か特殊な事情があるのかもしれない。そんなとこに一般人の僕がいたら確実に面倒くさいことになる。

『ニーナ。私の名前はニーナです』

 少女は自らを指差し、翻訳機を渡すのと同時に「Нинаニーナ!」と再度告げる。その寂しそうな笑顔に、そのまま背を向けて扉から出ていくことがどうしても出来ず、椅子のようなブロックのようなものに腰掛け「僕はコウヘイ。もしドクターが来たら怒られないようにしてくれよ、ニーナ?」と、なんとも情けない自己紹介をしてしまうのだった。

「コーヘー! ニーナ、コーヘー、トモダチ!」

 英語訛りとも違う不思議なイントネーションで日本語を話すニーナ。きっと勉強したのだろう、もしかしたらドクター相手にしか練習してなかったのかもしれない。花が咲いたように微笑む彼女は、僕の手を上から包むように握ってくる。手の甲から感じる痩せた指先と、ニーナの体温に僕は少し切なくなってしまった。


 それから僕とニーナは翻訳機を介して、とりとめもない話をした。好きな食べ物、動物、アニメのキャラクター、有名なイカのゲーム。どうやら東欧の国の出身らしく、やはり病気の関係で日本へと移送されてきたらしい。一時間あまり経った頃、思った以上に長居をしてしまったと思い、そろそろ帰る旨を彼女に伝えた。

『また来ることができますか。お喋りしたいです』

「……そうだね、ドクターに次は許可もらってくるよ」

 名残惜しそうにいつまでも手を振るニーナに後ろ髪を引かれながら病室を出る。清潔な廊下を少し歩いたところで僕は心臓が縮み上がってしまうのだった。ちょうど死角になって見えないエレベーター前のベンチに初老の、白衣を来たワイシャツ姿の男性が静かに座っていたのだ、まるで僕を待ち構えていたかのような格好で。

「ご、ごめんなさい! 無断で入ってしまいました!」

「ああ、大丈夫だよ。面会謝絶でもないからね。──しかし、一応こちらとしても立場があってね。申し訳ないが君のことを教えてくれないかい」

 深々と下げた頭の上あたりから、優しそうな声音で問いかけられる。きっと彼がニーナの言うドクターなのだろう。僕は自分の名前、三〇八号室で祖父が入院していること、その見舞いで遠方から八月の期間だけ祖父母の家に家族で滞在していることなど、なるべく清廉潔白かつ身元を明らかにするよう努めたのだった。弁明をする傍らで初老の医者の薬指には指輪が冷たく光っていた。

 身元の確認が取れ、怪しい人間ではないことがわかると僕はニーナに「また来てほしい」と言われたことを伝えると、少し逡巡したあと、静かに頷くのだった。

「いいよ、許可してあげよう。ただし、彼女はある意味特別待遇でね……難しい病気なんだ。治療と研究のために祖国から遠く離れた日本にいるから、本人のプライバシーを尊重するため無闇やたら周囲に言いふらさないでくれるかい?」

 至極当然の要求である。僕は一も二もなく同意した。

 もちろん彼女のために、だ。──だがしかし、長い夏の休暇を何も無い海沿いの田舎町で過ごす僕の暇潰しというのも否定はできない。曖昧な狭い世界から意図的に外れてみたかった。僕もまた、子供だった。


***


 凶悪な真夏の気温がアスファルトを灼いている。揺れる木漏れ日と緩やかな登り坂。滴り落ちる汗と海からのそよ風。コントラストの強い日差しを浴びながら静かな町をカブに乗って走る。病院へと向かう道にも慣れたものだ。


『私は東京に興味があります。東京を観光したいです。たくさんの人々と交差点が見たいです』

「渋谷かな……あんまり楽しいものじゃないと思うけど」

 あの日から僕は何度となく病院の地下二階にあるニーナの部屋に足を運んでいた。扉をノックするたびに嬉しそうに跳ねる白金色の髪が面白い。彼女とたくさんの話をした。翻訳機を介してなので、細かいニュアンスは読み取れないけれど、嬉しいこと、嫌いなこと、哀しいこと、楽しいこと、色々なことを通じ合った。異文化コミュニーケーションで僕が学ぶことも多く、僕の視野で見える狭い世界がニーナと会話するたびに広がっていく感覚があった。

 楽しそうに話す彼女の手の甲に絆創膏が貼られていた。

『私はずっとこの部屋にいます。ドクターは海のある町と言ってました。日本の太陽は眩しいですか?』

 パステルカラーのカーペットタイルが敷かれた部屋の一角には難しそうな機械がいくつも置かれている。その中には先端に吸盤みたいなものが付いた線が何本も垂れ下がっているものもあった。きっと彼女の身体の何かを測るための機械なのだろう。今はどれもシン、と沈黙しているがニーナはやはり病人なのだ、ということを忘れさせてはくれない圧迫感を放っている。昨日から謎の機械がまたひとつ増えていた。

 そして、手の甲だけでなく首筋にも何か広めのテーピングが施されていた。

『コーヘーと街を歩きたいです。私はカフェで冷たいココアを飲みます』

 普段、世間話をするだけの初老の医者が僕を医務室へと招いた。口の中、目や目蓋の裏側を検査され、尿の提出をさせられた。ニーナの病気は感染症ではないが、逆に僕が何かを持ち込まないか医者たちが神経質になってるらしい。「コウヘイ君を検査するにしたって初動が遅いのは困ったものだよ」と乾いた笑いを零しながら内情を小声で教えてくれるのだった。もっとも僕は健康体だし、念のため手洗いだって徹底していることも伝えている。

 日に日に絆創膏の数が増えている。今度は足先にもいくつかの絆創膏を見つけてしまった。


***


『三年前に父も母も動かないです。たぶん私と同じ病気でした。私だけまだ動いています』

 八月も終わりが近くなり、僕も夏休みの終わりを意識し始める頃、意図的に避けていた話をニーナが語りだした。翻訳機を差し出す彼女の碧の瞳が暗く沈んでいる。思わず胸を詰まらせる僕。それでも、目の前の少女を励まそうとなんとか言葉を紡ぎ出す。

「ニーナは元気じゃないか。それに東京へ行くんだろ? 観光のリストだって頑張って作ったしさ!」

『ありがとう。九月はもうコーヘーが来ないことを知ってます。私はさみしいです。だけど大丈夫』

 わずかに震える声を翻訳機に吹き込み、不器用な笑顔を作るニーナ。自分よりずっと年下の少女がハリボテだとしても気丈に振る舞っている。それでもあなたを引き止めたい、というわがまますら言えない境遇に僕は何もすることはできない。そのはがゆさと苦しさでどうにかなってしまいそうだった。

「また来年も来るよ、絶対に。……だから、もっと元気になったニーナに会いに来るからさ」

 彼女はその画面を受け取ったあと、返事を吹き込む前に僕の瞳と画面とを数回、逡巡するように往復したあとに今にも消えてしまいそうな細い声で何かを呟く。その声は握られた翻訳機の上にぼたぼたと落とされているように見えた。

『コーヘーとこの町の海を見たいです。日本の綺麗な太陽と海、私はまだ見たことがありません』

 それは初めてのわがままだった。彼女と出会って一ヶ月ほど経ち、ずっと良い子だったニーナの子供らしいわがまま。温度のない翻訳の文章だけど、今までで一番感情の伝わる画面だったかもしれない。

 僕は彼女に思い出を作ってあげたい、この先も頑張れるように。未来なんて知ったことか、今さえあればいい、本気でそう思った。人知れず拳を強く握る。気付けば、難しそうな機械がどんどんと彼女の聖域を侵食している現状。冷たい現実が明らかに忍び寄ってきているのだ。

 ──翻訳機を口元に近付け、小さく言葉を吹き込む。どこに耳があるかわからないこの部屋でニーナにだけ伝えたいことが出来たのだ。淡々とリフレインする世界から少しだけ外れてみないか、僕は悪魔のフリをして鳥かごの彼女をそそのかす。

 画面を見たニーナは目を丸くして、大きく頷いた。悪巧みをする僕らの笑顔が互いの瞳に映っていたことだろう。

「今夜、夜中の三時に扉の鍵を開けておいて。この町の一番最初に太陽と海を見に行こう」

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