第十二話「永遠(とわ)の想い」

 ――微睡まどろむお主の髪を撫でる。滑る指にくすぐったそうに身を捩る姿に、想いが溢れる。


 この時間ときが終わらなければいいと思いながらも、迫る時間ときを受け入れている己がいる。


 どうかお主がこの世界で幸せに過ごせるようにと。そればかりを、願う。


 ***


『愛している』


 女の細い指がそっと、黒の天狗の頬を撫でる。


『愛しい儂の天狗。どうかこの森を護ってくれ』


 形のよい唇が、黒の天狗のそれと静かに重なり合った。


『儂の愛する氷雨。…どうか、儂を忘れないでくれ』


「―――!」


 離れゆく女を追おうと我に返った黒の天狗の視界に映ったのは、窓の隙間から差し込む光だった。その光は、既に陽が昇り切っていることを黒の天狗に伝えていた。


 慌てて身を起こし、隣を見遣る。しかし、確かに隣にあったはずの温もりはなく、すっかり冷え切ってしまっていた。


「――くそっ、何故だ…!」


 何故、動いた女の気配に気づけなかったのかと己を叱責する。


 ――女を死なせてはならない。例え、世界が枯れ果てようとも。


 女を探すために黒の天狗が立ち上がると、その懐から何かが零れ落ちた。


「こ、れは…。常盤…っ」


 拾い上げたものは、昨晩、女が忍ばせたであろう匂い袋。その微かな残り香は、深い眠りを誘う草木のものだった。


 ――バサ…ッ


 黒の天狗は外へ飛び出すなり翼を広げる。向かうは、ひとつ。


「間に合え…っ」


 力強く翼を羽ばたかせ、黒の天狗は出せる限りの速さで空を駆け抜ける。そして黒の天狗が目指す先で、女はただ静かに最後の浄めを行っていた。


 ぱしゃり。跳ねる水は不思議と、いつもより澄んで見えた。


 遠くのほとりには、人影が三つ。村の長である男と、その護衛である青年二人の姿だ。


 ――これでよい。


 女は、人知れず薄く微笑む。


 ――これで、よいのだ。


 森も人も、好きだから。そして何より、愛する者が生きる世界を護りたいから。


 覚悟を決めたように女は勢いよく水面を潜り、流れるようにほとりまで泳いだ。


「……準備は、よいか…?」


 水面から顔を覗かせた女に、男は問う。


「――はい」


 女は晴れやかな笑みで、それに頷いて答えた。


 ***


「――氷雨。そんなに急いでどこへ行くの?」


 全速力で駆け抜けぬ黒の天狗の前に、突然として割り込んだ白い影。それが白の天狗だと認識すると黒の天狗には邪険にすることもできず、その羽ばたきを止めた。


「君の翼も随分と立派になったね」


「……朧夜様。俺は、急いでいまして――」


「待ちなさい」


 幾分か強い声音が、黒の天狗の言葉を遮る。


「彼女のもとへ行くつもりだね?」


「そうです」


「けれど、宿命は変えられないよ」


「っ、朧夜様、知っていて…」


 黒の天狗は、思わず言葉を失った。


「宿命は変えられないよ、氷雨。彼女は、尊い犠牲となる宿命に選ばれた」


「……誰がそのようなことを言ったのですか?俺は認めません。行きます」


「――氷雨!」


 飛び立とうとする黒の天狗に、白の天狗がしゅをかける。途端にそのからだは、何かに縛り上げられたかのように動かせなくなった。


「――君は行ってはいけない。あれは人間ひとの儀式。天狗が邪魔をしてはいけないよ」


「離してください…っ」


「氷雨。前にも言った通り、君はこの森を担うべき天狗だ。人間ひとに深く関わって、あるべき姿を失くしてしまってはいけない」


「俺が!ここまで強くなれたのは、常盤のお陰です…!」


 黒の天狗は霊力ちからを解放するように力を込める。今は一刻でも早く、愛しい女のもとへ辿り着きたかった。


人間にんげんの女一人も護れない天狗がこの森の天狗を担うなど、そんな馬鹿けた話はない!」


 黒の天狗のからだが少しずつ動き始める。それに焦りを覚えた白の天狗は、さらにしゅを強めた。


「諦めなさい、氷雨!」


「戯言を!」


「氷雨!」


「――あぁぁぁぁああっ!」


 ***


 手渡された短刀はとても美しく、まるで女のために打たれたものかのように、しっくりとその手に馴染んだ。


 女が視線を短刀から男へと移せば、男は黙って頷いた。


「――行って参ります、秋吉様」


 やはり一点の曇りなく微笑む女に、男は震える声で紡ぐ。


「……すまない。本当に、すまない…っ」


 詫びる男に、女は静かに首を横に振った。


「私は、幸せでした」


 姫巫女の宿命を背負ったからこそ、この森で黒の天狗と出逢えた。そして、誰かを愛する愛しさと切なさを知った。


「どうかお元気で。――父上」


 ――まだ、父と呼んでくれるのか。


 随分と久しく呼ばれなかった名に、男の心は震えた。


 ちゃぷり。女は泉の中心まで泳ぎ、そして顔を出した。


 晴れ渡る青空。見渡す限りの緑樹。その木々の間から零れる木漏れ日。頬をくすぐる柔らかな風。愛らしい唄を紡ぐ鳥たち。


 その全てが愛しいと女は思った。その全てを護りたいと、女は思った。


 ――白い喉に向けた切っ先。思い浮かぶ、愛しい天狗。


「――愛している、永遠とわに」


 それは不思議と、怖くはなかった。


『――かあさま。とうさまは、すぐだよ』


「常盤…!」


 幼子の声が聞こえたかと思えば、薄れゆく女の視界いっぱいに黒の天狗の姿が映った。


「常盤!逝くな…っ、逝かないでくれ!」


 これは死ではなく、この世界を潤す慈雨となるための儀式なのだと、女は伝えたかった。


「常盤…っ」


 その頬を流れる涙が美しい。まるで愛しい天狗そのものだと女は思った。強く美しい、天狗。


 ――愛しい、儂の天狗。


「うあぁぁぁぁぁああ…!」


 先程までの青空を、分厚い雲が覆い始める。澄んだ水と溶け合うように、女の赤色が滲んでゆく。


「常盤っ、常盤…!」


 何度その名を呼ぼうとも、女はもう、目を開けることはない。作り物のようにひどく白くなった肌が、黒の天狗にそう教えていた。


 ――ぽつり、ぽつりぽつり、


 ひとつ、またひとつと、雨が天狗の頬を濡らす。


 それは雨粒か、己の涙か。もはや、そんなことはどうでもよかった。


「……常盤、」


 頬を伝う冷たさは女の涙か。天の涙は、一層強さを増した。黒の天狗はもう動かない女の身体からだをきつく抱きしめた。


 ひどく冷たい。あの温かさは一体、どこへいってしまったのだろうか。


『――とうさま、泣かないで』


 頭の中に響く幼子の声を聞いた黒の天狗は、冷たくなった女の腹にそっと手を当てた。


「……俺は、永遠とわにお前たちの傍にいることを誓おう」


 まるで何かを悟ったかのように、黒の天狗は誓いを立てる。そうしてその翼を広げ、女を優しく包み込めば。


 静謐な水の中――誰にも侵されることのない世界へ、その身を静かに沈めた。

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