第十一話「分け合う温度」

 いつのことか正しく分からないほど遠い昔。それは突然、人間ひとを襲った。


 各地で不作が続き、その飢えを凌ぐために小さな小競り合いが始まった。やがてそれは国の争いとなり、さらには疫病までも流行り出した。


 そして、ついには一滴として雨が降らなくなった。


『龍神様がお怒りか…?』


『もう村は終わりだ…国も滅ぶぞ…!』


 そんな行く末に諦めを見せ始めた村人たちのもとに現れたのは、一人の美しい女だった。


『どうか最後まで諦めないでください。私が、雨を降らせて参ります』


 神をも思わせるほどの女の厳かな雰囲気に村人たちは魅入られ、そして希望を持った。


 そうして村人たちに案内され、女が辿り着いた先の泉は枯れ果て、もはやただの巨大な窪みと化していた。


『必ずや雨を降らせて参ります。……けれど、これだけは約束をしてほしいのです。また、百年後、私の魂の欠片を持った者をここに連れて来てください』


 村人たちは、ただただ不思議な女の言葉に聞き入った。


『何度も生まれ変わって、私は雨を降らせましょう』


 そして女は泉を染めた。己の赤色で。


『決して忘れてはなりません。百年の後、私をここへ』


 ――ザアァァァアア


 女が眠るとしばらくして、温かな雨が降り注いだ。村人たちはただ、感謝と哀悼の涙を流し続けた。


 女の身体からだが、慈雨とともに泉へと溶け込んでゆく。


 こうして潤いだ世界は、何度も何度も慈雨を降らせ、時を巡り続けるのだった。


 ***


「すまなかった」


 欠けた月が爛々と輝く夜。二人きりとなった家の中で、哀しげに女は呟いた。


「……聞き飽きた」


 先程から依然として己を見ようとしない黒の天狗の姿を、女はひたすら見つめていた。


「怒っているのだな?」


 ぴくりと、黒き天狗の柳眉が吊り上がる。


「ずっと隠されていた」


「それは悪かったと思うておる。だが氷雨。儂は――」


 ――ダンッ


 女の言葉を遮るように、黒の天狗は床を殴りつけた。


「――氷雨…」


 女はただ、哀しむように目を伏せる。


「氷雨…分かってくれとは言わぬ。けれど、儂は護りたいのだ。この森を、人を、大地を護りたいのだ」


「………」


 愛しいから護りたいのだと、女は言う。


「――氷雨…そろそろ、顔を見せてくれぬか…?」


 弱々しい声と頬に触れたその手の温もりに、黒の天狗は思わず振り返った。


「――氷雨…儂の、愛しい天狗」


 女は静かに泣いていた。けれど、微笑んでもいた。それは漠然と、ただ美しく。


「――何故…っ」


 心の臓がひどく苦しいと、黒き天狗は思う。


「何故お前なのだ…!」


 女を失いたくないあまりに抱きしめたその身体からだは折れそうなほど細かった。


 この細身に、世界はさぞ重たかろうに。


「お前が共に森を護ると言ったのだ!ならば!俺の傍で生きて!この森を護ってくれ…!」


「ひ、さ…めっ」


 お互いに伝えたいことは、たくさんあるはずなのに。嗚咽ばかりで、肝心な言葉が出てこない。


「好きだ、お前が。愛しいのだ、常盤が」


「氷雨…っ」


「お前がいない世界など要らない。お前がいるから俺は、ここで生きるのだ…!」


「しかし、儂がやらねば大地は死ぬ。大地が死ねば、何者も生きられない。儂はお前を護りたいのだ、氷雨…!」


「俺とて!お前を護りたいのだ!」


 女を抱きしめる腕が、より一層強くなった。


「……行くな。行かないでくれ。――傍に、いてくれ…」


 黒の天狗の震える声に、腕に。女の胸は締め付けられ、また、はらはらと涙を流した。


「――氷雨、儂はお主を愛している」


「…っ」


「だから、氷雨。儂を強く抱いて、離さないでくれ」


「常盤…っ」


 互いにその存在を確かめるように口づけを交す。そうして強く抱き合ったまま、二人でそっと床に倒れ込んだ。


 別々の身体からだであることがもどかしいかのように性急に。それでも、傷つけまいと優しく慈しみ触れ合いながら互いの温度を分け合う。


 そうして、言葉にならない想いを伝え合い、その温もりと心地よさに酔いしれた。


 ――無情にも進みゆく時間ときの中で、ただ二人は、この瞬間を求め合った。

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