第九話「女の使命」
「……あれからもう、十年になるだろうか」
昔を思い返しているのか。男は遠い目をして、ゆっくりと話し出した。
「まだ五つだったお前を、私がここへ連れてきた。……覚えているか?」
女は静かに頷く。その視線だけは真っ直ぐに、男を捕らえていた。
「お前はさぞ、私を恨んでいることだろう。一人で生き抜く術も持たぬお前を、山奥の森へ閉じ込めたのだ。恨まれることも仕方ないと思っている」
そう笑ったはずなのに。男の表情として現れたのは、苦悩と後悔の念だった。
「許してくれとは言わない。私は恨まれて当然なのだから」
男の膝の上できつく握られた拳が小刻みに震えているのを見て、女は男と同じようにゆっくりと口を開いた。
「――秋吉様を恨んだことなど、一度もございません」
これは嘘偽りのない、
「幼い頃は、ただ己を悔いておりました。悪い子だったからこの宿命を背負ったのだと、と己を呪っておりました」
――だから父様や母様に捨てられたのだ、と。何度、涙を流したことか。
「けれど今は違います。秋吉様は村の長となる者として、ご立派にその使命を全うしたと思っております」
凛とした強い意志を持った声に、その言葉に。弾かれたように男は顔を上げた。
「現に、ほら。秋吉様はご立派な長になられたのでしょう?――ならば私も。私の使命を全うしようと思っております」
男の目に映る女の表情はとても穏やかで、慈愛に満ち溢れていた。
「――秋吉様。この世界は、美しかった。私はここへ来て多くのことを知り、そして学びました」
この森へ想いを馳せるように、女は目を閉じる。
「空の青さも、鳥の歌声も、風の心地よさも、全て。全て、ここで知り得ました。――否、ここでしか知り得なかった」
心が折れそうになったとき、何度この空に励まされたことか。
「この森は優しかった。いつであろうと、私を受け入れてくれた」
寂しさと哀しさで溢れる涙を止められなかったとき、そよ風が何度その涙を拭ってくれたことか。
「私はこの森を護りたい。ひいては、この世界を護りたい。そして、
「………っ」
男の胸に、抑えようのない熱さが込み上げる。
なんと強き
――なんと勇ましく、なんと儚き
「……明日、お前が十六になる日…、」
詰まった男の言葉に、女は微笑んで頷いた。
「秋吉様は、この世界がお好きですか?」
「――無論だ…っ」
本当は、たった一人の
それでもこの
「……そのお言葉が聞けて良かった。そして、この大役を担うのが私で良かった」
――良いはずなど、ないはずなのに。
男は唇を噛み締めて、目頭から溢れ出しそうになる熱を必死で抑えた。
「――秋吉様、この愛しい世界のために、」
「私は喜んで、この
「――待てっ、貴様…!」
突然、騒々しい声が響き渡り、荒々しく戸を開け放たれた。
「――今の言葉は、どういう意味だ…?」
そして、そこに立っていたのは、息を切らした黒の天狗の姿だった。
「ひ、さめ…」
驚きに満ちた女の顔。しかし、それはすぐに落ち着きを取り戻し、女はそっと微笑んでみせた。それはもう、もはや黒の天狗に隠しておけないことを悟った表情だった。
「…っ、」
そんな女の表情が一瞬、今にも泣き出しそうに歪んだのを黒の天狗は見逃さなかった。
そうして女と出逢った夜を、ふと思い出す。今思えば、女はあのときからずっと笑っていた。己の想いが表に出ないように、と。本当は、女の目は、声は、何度も何度も訴えていたはずなのに。愚かにもそれに気づくことができなかった己を、黒の天狗は悔やんでも悔やみきれなかった。
『儂はこの森が好きだ。この季節の薫りを運ぶ風も、豊かな緑を癒す慈雨も』
この森を好きだと言った、女の声が蘇る。
女と共に感じるこの森が好きなのだと、黒の天狗は気づいた。そして、女が傍にいるから、この森を美しいと感じるのだとも。
『儂はこの森を護るよ、氷雨』
女が森を護ると言うのなら、己はその女を護りたいと、黒の天狗は思う。
『強くなれ、氷雨。今よりも一層。何者も及ばぬほどに』
女を護れるように、強くなるから。
『氷雨たちの森や、この大地が好きなように。儂はやはり
どうか、何処にも行かないでくれと願う。
そしてこの想いの名を、黒の天狗は知る。
――俺はお前が愛しい。愛しいのだ、常盤。
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