第八話「終わりを告げる来客」

 ある日をさかいに、女が毎朝泉へと浄めに行くようになってからしばらく。新しい季節の訪れを知らせるように、花々の芽が顔を出し始めた頃のことだった。


 ちゃぷん、と、澄んだ水面が揺れる。浄めを行う女を美しいと、その姿を見る度に黒の天狗は思う。


「今日も快晴だな」


 水に背を預けたまま、女が呟いた。


「……だが最近、何故か森が落ち着かない。何か騒いでいる」


 黒の天狗の言葉に、女は静かに目を閉じた。


「……何かを…この森は感じ取っているのかもしれぬな」


 心地よい風に吹かれ、喜ぶように木々が葉を揺らす。


「――嗚呼、そうだった。氷雨」


「…なんだ」


「昼時に来客がある。今日はもう、儂のおりをする必要はないぞ」


「………」


 出逢ってからずっと。女と同じ時を過ごしていた黒の天狗は、その言葉に少し寂しさを覚えた。


「……そうか。お前に客など、初めてだな」


「そうだな。人に会わなくなってから随分と久しい」


 しかし、寂しさだけではない何かも、黒の天狗は感じていた。


「…その客、とは?」


「なんだ、気になるのか?」


「………」


 茶化すように笑う女に、何も言えず黙り込む。


「案じずとも儂はこの森から出ては行かぬ」


「……そうか」


 いつも通り、変わらない声でからからと女が笑う。それでも黒の天狗は、言い知れぬ不安にも似た感覚を拭えずにいた。


 そして、気づけずにいた。


 ――女の言葉の真意に。


 浄めを終え、家まで女を見送った黒の天狗の顔は何かを言いたげで、それでもその言葉が見つからないといった表情で、しばらく女を見つめていた。


「どうした、氷雨?」


 一片の曇りもない穏やかな女の顔。その顔を見た黒の天狗は、紡ぐ言葉を探すことを諦めたように小さく息を吐いた。


「……明日、また来る」


「――ああ。待っている、よ」


 艶やかな両翼を広げ舞い上がる黒の天狗。まるでその姿を目に焼き付けるかのように、その背が見えなくなってもまだ、女は黒の天狗を見送り続けた。


 そんな女の元に客が現れるまで、そう長い時間は掛からなかった。


「――随分と久しいな、姫巫女よ」


「お久しぶりでございます、秋吉あきよし様」


 家へと招いた客。目の前に座る、髭を蓄えた中年の男と、その背後に控えるように座る青年二人に向けて、女は深く頭を下げた。


 男の顔には、その人生が豊かでありながらも何かしらの苦難に苛まれていることが察せられるほどに、深く皺が刻み込まれていた。


「私がここへ来た理由……言わずとも分かっているな?」


「………」


「――どうか己の運命を呪うなかれ」


 己の言葉に黙って頷いて見せた女に対して掛けた言葉が、ひどく安易なものだと男は思う。


「……すまないが、少し席を外してくれないか」


 男の願いに青年たちが頷き、立ち上がる。そうして二人が出て行ったことを確認したあとに、男はゆっくりと口を開いた。


「……美しく、なったな」


 ***


 ――やはり何か落ち着かない。下ろしていた瞼を上げ、黒の天狗は立ち上がった。そして、背を預けていた大木に触れる。


 ざわり、ざわり。この森も同じように、騒めきを繰り返していた。


「……この森に、何か起きるというのか…?」


 問うてみても答える声などなく。その瞬間、黒の天狗の脳裏に女の顔が過ぎった。


「まさか…常盤に関係が…?」


 ――思い返せば、森の騒めきが増したのも、ちょうど女が毎朝浄めに行くようになってからではないか?


 一度思えば、疑惑は溢れ出し留まることを忘れ、黒の天狗の心に巣食う。


 次の瞬間には、その思いのままに地を蹴り上げ、黒の天狗は空へと飛び上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る