第七話「想いの名」
――一体どちらが、
悟らせぬようにと務めていたはずなのに、悟ってほしいと思うときがあった。お主が傍にいることが当たり前になればなるほど、どちらの想いも増すばかりだった。
***
「氷雨。今日は少し遠出しないか?」
朝、いつものように。己のもとへ現れた黒の天狗に、女は白い息を混じらせながらそう言った。
「お主の分の握り飯も作っておいたぞ」
「……お前の誘いはいつだって、俺に選択権がない」
黒の天狗の呆れたような表情に、女は声を上げて笑った。
「確かにそうだな」
くつくつと、さも可笑しそうに笑うその姿に、黒の天狗も自然と口元が緩むのを感じていた。
「……どうせなら思い切り遠くへ行くか?」
「思い切り、遠くへ?」
「そうだ。ここの向かいにある山の麓へ」
「ほう。そこには何が?」
女の目が好奇心で煌めく。黒の天狗は女がそうするように、少し意地悪く笑って見せた。
「自分の目で確かめろ」
そこから女が何かを己の目で確かめるまで、そう時間は掛からなかった。
いつかのように女を抱き抱え、黒の天狗はその翼で空を舞う。そして森の向かいの山の麓が近づいたとき、女は興奮を隠せない声で黒の天狗の名を呼んだ。
「氷雨…!」
「…なんだ?」
女の言わんとする言葉が分かるのか、黒の天狗の口元は孤を描く。
「お主が言っていたのは、あれのことかっ?」
片腕を黒の天狗の首から離し、女は麓を指差す。そこ広がる一面の銀世界の中で、二人を誘うように一際煌めく光があった。
「…手を離すな。落ちるぞ」
「それは困る。だが、氷雨はきっと落ちる前に儂を助けてくれるのだろうな」
女は離した腕を再び黒の天狗の首に回す。そして微笑めば、黒の天狗は何も答えず苦笑を零した。
「お主の沈黙は肯定だな」
いつかと同じ言葉。
「……お前には敵わない」
そしてゆっくりと下降し、白の世界から少し顔を覗かせていた岩場に足が着く。女は待ってましたと言わんばかりに、勢いよく振り返った。
「――嗚呼、綺麗だ…」
意識せずとも零れ落ちた言葉。目の前に広がる世界は、陽に照らされた小さな氷の結晶がその光を反射させながら降り注ぎ、輝いていた。
「……少し前にこの辺りを飛んでいたときに見つけて…お前が好きそうだと思った」
その穏やかな声に振り向いて、女は驚きに目を見開いた。
己の隣に立つ黒の天狗は柔らかく微笑み、女を見つめていた。その温かな視線が己に向けられているのだと思うと、女は堪え切れないように黒の天狗の胸へと飛び込んだ。
「…っと」
触れる女の温もりに、黒の天狗は心が満たされる感覚を知る。
「……すごいな、氷雨。本当に、綺麗だ」
己を包み込む硬い胸に身を預けたまま、女は感嘆の溜息を零した。
「力強く生きておるのだな、この大地は」
「…そうだ。生きているのは妖や人間だけではない。人間たちは、それを忘れている」
黒の天狗の呟きは、人間という存在に辟易しているようにも聞こえる言葉だった。決して短くはない生の中で、黒の天狗は人間に遭遇することもあった。そして遭遇した人間の多くは、身体の外に滲み出るほどの大きな欲を抱えている者ばかりだった。
そんな黒の天狗を、女は真っ直ぐに見上げる。
「――だが、儂は忘れてはいない」
降り注ぐ光の氷を思わせる、透き通った声だった。
「確かに数は少ないのかもしれない。けれど、それを忘れていないのは儂だけではない。……だから、氷雨。どうか人間を嫌いにならないでくれ」
――それは、祈りにも似た願いのようだと、黒の天狗は思った。
「天狗から見れば儂ら人間は、一瞬にも満たぬ
冷える身体を温めるように、その想いを伝えるように、黒の天狗に触れる女の手に力が篭った。しかしその視線は、哀しげに落とされる。
「永い時間を生きるお主たちに、人間は憧れている。またそれと同じくらいに、ひどく怯えている。……だからと言って、人間の過ちの全てを許せと言っているわけではないがな」
人間を語る己もまた、ただのしがない人間なのだと、女は小さく苦笑した。
「氷雨たちの森やこの大地が好きなように、儂はやはり人間も好きなのだ。愛しいと、思う」
――そう、愛しいから。だからこの森と共に護りたいと、女は思う。
「…だから、氷雨。そんな顔をしないでくれ。どうか、人間の良さを見つけてはくれないか?」
まるで幼子をあやすように、女の手が黒の天狗の頬を撫でる。その細い手に、大きな手がそっと重なった。
「……俺の知る人間は傲慢で欲深く、いつも己のことしか考えていなかった」
黒の天狗の眼に映る仄暗い色の感情に、女の胸が痛む。
「…けれど、常盤。お前と出逢って、少しだけ。少しだけ、人間も悪くないと思えた」
先程までの胸の痛みが、一瞬で和らいだ。そして女は己の
「……泣くな」
「…泣いてなどおらぬ」
「お前に泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる」
今度こそ、女の目から涙が零れた。
そしてこの世界や人間以上に、目の前の天狗が、何よりも愛しいと思った。
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