第六話「女の宿命」

「最近は何だか愉しそうだね、氷雨」


 満月の夜。黒の天狗は森の小さく開けた草地に座り、月を見上げていた。そこで鈴のような軽やかな声に名を呼ばれ、静かに振り返る。


「……朧夜様」


 振り返った先で、月明かりに照らされた銀糸の髪が煌めく。白と花色の衣を纏い、白の天狗は姿を現した。


「他の者には分からなくても私には分かるよ。前よりも穏やかになった」


 白の天狗は、見る者全てを魅了するようなたおやかな身のこなしで、そっと黒の天狗の隣に腰を下ろした。


「君をそんな風に変えてくれたのは、彼女かな?」


 ふわりと、白の天狗が微笑む。それだけで、まるでその場に華が咲き乱れたかのように、空気が和らぐのを黒の天狗は感じていた。


「……朧夜様は、全てお見通しですか」


「可愛い氷雨のことならね。私にはなんだって分かるよ」


 瞬きをする度に揺れる長い睫毛が、性を超えた白の天狗の美しさを際立たせる。


「……けれどね、氷雨」


 ――どくり。少し低くなったその声に、黒の天狗の鼓動は大きく脈打つ。


「私たちは天狗だ。どうしても残されてしまうのは、私たちだよ」


 その儚い微笑みに、白の天狗の言わんとすることを黒の天狗は察した。


「氷雨。いずれ君は大天狗となり、私のあとを継ぐ。君はきっと私以上の大天狗になるだろう」


 己の頬に触れた白の天狗の手の冷たさに黒の天狗が思い出したのは、あの雨の日のことだった。


「今ならまだ間に合う。彼女との別れが辛くなる前に私のもとへ戻っておいで。私のもとで、私を助けてくれないか?」


「―――、」


 白の天狗の言葉を反芻するように、黒の天狗は静かに眼を伏せた。


 天狗と人間とでは、その生命いのちながさが違う。それは変えようのない事実であり、どちらが残されるのかは明確だった。


 そして、残されたあとは経験したことのない哀しみが襲い掛かるのだろう。天狗の長とも言える大天狗の後継ぎとして未来を約束されたのならば、白の天狗のもとで生きる方が良いということも黒の天狗は理解していた。


 ――けれど。


 白の天狗も認めるほどの霊力ちからを与えてくれたのは。穏やかになったと、変わるきっかけを与えてくれたのは。全部、あの人間の女ではないか。


「――朧夜様、」


 視線が交われば、白の天狗が微笑む。


「……俺は、それでも俺は。常盤の傍にいたいと、望みます」


 それは、白の天狗にとって初めて目にした、感情らしい感情を見せた黒の天狗の顔だった。


「――君の答えはとても残念だけど、そんな顔が見られたことはとても嬉しいよ」


 白の天狗は静かに腰を上げ、黒の天狗を見下ろした。


「君のことを諦めたわけではないけれど、今夜のところは退散するとしよう」


 白の天狗はその場に微笑みをひとつ残して、森の奥へと歩みを進めた。


「――本当に、氷雨は変わったね」


 そうして黒の天狗から離れたところで、木々の合間から顔を出す月を見上げて一人、呟いた。


「力ばかりが強くて、いつも君は孤立していた。むしろ、自ら周りと壁を作っていた」


 幼い頃の黒の天狗を懐かしむように、その銀の目を細め、小さく笑う。


 黒の天狗を己の後継ぎにするかどうか、本当は決めかねていた。それは、跡継ぎにするにはあまりにも無感動で、この森の天狗を担っていけるか不安があったからだ。


 しかし、黒の天狗は感情を手に入れた。自ら築き上げた壁を壊して、誰かに心を砕くことを知った。それを教えてくれた人間の女に、白の天狗は感謝をしていた。


 ――けれど。


「……君たちの運命は、あまりにも残酷すぎた」


 寿命を全うするよりも早く、黒の天狗は大きな哀しみを知るのだろう。


 ――ざわ…っ


 風も吹かぬ夜に、森が囁き合う。これから沸き上がる哀しみを憂うように。


「…そう。そうだね。この森はみんな、彼女が好きだから」


 白の天狗の言葉に応えるように、森の囁きが増す。


「――彼女の宿命を、嘆いているのだね」


 そして同刻。女も一人、満月を見上げていた。


「…もう間もなく、だな」


 月の光に照らされる白い肌が、女をより一層儚く見せていた。


「己の宿命など、とうに受け入れていたはずなのに、」


 その光から身を隠すように月に翳した手が、震える。


「いまさら、怖くなってしまったよ」


 紡いだ言葉も、震えていた。


「――氷雨、」


 女の声は、黒の天狗に届かない。


「氷雨…」


 震える手を握り締めて。溢れ出る想いを身の内に押し込めるように、女は震える身体を抱きしめた。

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