第五話「触れる熱」
――この身を焦がすような想いの名を、俺は知らない。
それでも、確かなことがひとつだけある。それはお前が俺にもたらすひとつひとつが温かい、ということだ。
***
――ぱしゃり、
ひとつ、またひとつ。静かに水が跳ねる音が続く。大きな泉の中心で流れるように泳ぐ黒い影を、黒の天狗はそのほとりから静かに見つめていた。
今朝、いつものように現れた黒の天狗に、今日は浄めの日であると女は言った。それは、女が定期的にこの泉へ訪れ、その身を浄めることを務めとしているような口ぶりだった。
「―――、」
ふと、黒き天狗の中に疑問が生まれる。この泉に呼び名があると、いつだったか女は言っていた。つまりそれは、この泉が人間の間で重要視されていることになるのではないだろうか。『浄め』と言い、その身を浸す女は何かの巫女なのであろう。
――では、女は一体、何の巫女なのか。
既に強大であるにも係わらず、女の
「――氷雨」
呼ばれた名に、黒の天狗は声の方へと視線を動かす。いつの間にか泉のほとりまで来ていた女が、その顔を水中から覗かせていた。
「思い耽たような顔をしているな。考え事か?」
「……そのようなものだ」
「珍しいな。して、答えは出たか?」
曖昧な答えにも女は怪訝そうな顔をすることなく笑い、ざぶりとその身を泉から上げた。
「……出ていない」
女に背を向けながら、黒の天狗は短く答えた。
「……そうか。天狗の寿命は永いのだろう?それまでには答えも出るだろう」
「………」
沈黙の中に衣の擦れる音だけが響く。
「――お主の求める答えが解る日も、そう遠くはないだろう」
囁くように小さく紡がれた女の言葉は、大きく吹き抜けた風によって掻き消される。そうして黒の天狗に届くことなく、散ってしまった。
「付き合わせてしまってすまなかった。そろそろ戻ろう」
この声に黒の天狗が振り返れば、すっかり身なりを整えた女が笑って立っていた。
「それにしても、寒さが身に染みる季節になったな」
吐いてみせた女の息が、薄っすらと白く濁る。
「雪が降れば、木々に積もる。木々に積もれば、それが朝日に反射する。その光景はまるで、光の葉を付けているようでとても美しいのだ」
まるで雪が降り積もるのを待ちわびている子供のように、女は無邪気に笑った。そのあどけない笑みを見て、黒の天狗は眩しそうに眼を細めた。
「そろそろ本格的に冬の準備を始めるとしよう。行こう、氷雨」
共に行くことが当たり前のように黒の天狗の名を呼ぶ女。そしてそれを当たり前のように受け入れる黒の天狗。そうして森を目指して、少し山を下ったときだった。
「――なにやら一雨来そうだな」
女の声に黒の天狗も一緒になって、鈍色の空を見上げた。
「…急ぐぞ。このあたりは道が悪い。雨など降れば、途端にぬかるみに足をとられる」
「こういうときに天狗の翼は良いな。歩かずにすむ」
「…お前を抱えて飛ぶ気はない」
「ははっ、分かっておる」
「……さっさと歩け」
足早に歩き出す黒の天狗を、女が追おうとしたときだった。
「――あ、」
ぽつり。女の鼻先に雫が落ちてきたかと思えば、それは一気に無数の雨粒となった。
「…ちっ。急ぐぞ」
二人は足を進める。いつも女の後方を歩いていた黒の天狗は、いつからか女の前方を歩くようになっていた。
きっかけは、二人で木が生い茂った山奥へ入り込んだときだっただろうか。なかなか先へ進むことのできない女を見兼ねて、黒の天狗が女を追い越して道を作るように前を歩き出した。女が歩きやすいように、危険な目に遭わないようにと。
――ザアァァァ…
雨はその強さをさらに増し、容赦なく二人に襲い掛かる。水分を含み重くなった衣が身体に纏わりつき、思うように身動きが取れない。己の歩く速さに女が着いて来られているか確かめようと、黒の天狗が振り返ろうとしたときだった。
「――っ、あ…」
小さな呻き声が聞こえ慌てて振り返れば、女がぬかるみに足を取られ、今にも倒れ込みそうになっていた。
「――常盤!」
ひとつ足を踏み外せば、その先は小さいながらも崖になっている。女と時を過ごすことで人間の身体の脆弱さを知った黒の天狗は、必死にその手を伸ばした。
「…っ」
女が地に倒れ込むまでに、なんとかその細腕を捕らえることができた。
「…手間のかかる…っ」
そして、そのまま腕を引き上げれば、女は引き込まれるように黒の天狗の胸の中へと飛び込んだ。
駆ける鼓動は、女のものか。はたまた、黒の天狗のものか。
「……足をとられると言っただろう」
「――初めて、だな」
噛み合わない応酬に、黒の天狗は顔をしかめる。
「――初めて、儂の名を呼んでくれた」
そうして、己の腕の中で嬉しそうに美しく微笑む女の言葉に、黒の天狗は返す言葉を失った。
「なぁ、氷雨。もう一度。もう一度だけ、儂の名を呼んでくれぬか?」
雨に濡れ、身体が冷えたせいだろうか。女の黒曜が潤み、揺れている。煌々と輝くその目に、黒の天狗は吸い込まれるような感覚に捕われていた。
「――常盤、と。もう一度」
紅く濡れた唇が、黒の天狗を誘う。
「――と、きわ…」
――そして、理性を狂わす。
気づけば貪るように、黒の天狗は女の唇を己のそれで塞いでいた。
何度も何度も。離れては、重なり合う。
「…常盤、」
吐息とともに零れる掠れた声に女は嬉しそうに目を細め、触れる熱に応えた。
――いくつ、時が過ぎただろうか。
二人の熱が治まった頃には、雨もその勢いを弱めていた。
「……まだ、止みそうにないな」
黒の天狗が呟くと同時に、女が小さく身震いをする。
「濡れて身体が冷えたか…帰るぞ」
黒の天狗が、優しく女の腰に手を回す。
「…掴まっていろ」
そしてしっかりと女を抱き寄せ、女が己の首に腕を回したのを確認すれば、その荘厳な両翼を羽ばたかせ舞い上がった。
「儂を抱き抱えて飛ぶ気はなかったのではなかったか?」
「……考えていた以上に手間のかかる人間だったからな」
黒の天狗の言葉に、女は愉しそうに笑った。
「案外天狗というのも人が良いようだ」
黒の天狗が小さく笑う。それは、とても穏やかな時間だった。
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