第四話「厳かな翼」

 ――どさり。息を止めたそれは、重く地面に崩れ落ちた。


「……夕刻までに三体。日に日に数が増えている」


 黒の天狗は、地面に転がった巨大なあやかしを一瞥し、呟いた。


「手間をかけるな」


 苦笑じみた声が黒の天狗の背後から聞こえた。それに振り返れば、すっかり色づいた木の陰に女が立っていた。


「……隠れていろと、そう言ったはずだが?」


 二人の間に交わされた契約から、いくつかの月日が流れていた。


「そう怖い顔をするな。あやかしの気配が消えたのを確認してから出て来たのだ」


 女が肩を竦めながら、黒の天狗に歩み寄る。


「……お前の霊力ちからが少しずつだが増してきている。お前自身も抑えきれないほどに」


「確かに。そして溢れ出る霊力ちからがそやつらを呼び寄せているのも分かっている」


「――何故だ」


 黒の天狗の疑問はただひとつ。何故、人間の女がそこまで強大な霊力ちからを持つのか。


「まぁ良いではないか。儂の霊力ちからが強ければ強いほど、お主に渡る霊力ちからもまた強くなる」


 しかし、黒の天狗の求める答えが返ってくることはなく、女は話を逸らすように笑った。


「――ああ、氷雨。この森は、本当に静かだな」


 そして、ぽつり。女は天を仰いでそう呟いた。


 木々は静かに囁き、空はゆっくりと茜色に染まっていく。


「儂はこの森が好きだ。季節の薫りを運ぶ風も、豊かな緑を癒す慈雨も。――そして、氷雨。お主と出逢えたことも」


 女の視線が天から黒の天狗へと移される。そして女の腕がそっと黒の天狗の首に回され、二人の唇が触れ合った。


 ――ばさり、


 まるで昂る感情を抑えるように、闇夜の両翼が広がる。その翼は艶やかさを増し、ひどく麗しかった。


 そっと離される熱から、微かな吐息と霊力ちからが零れる。


「――儂は、この森を護るよ」


「………」


「だからお主も、儂の霊力ちからを得て強くなれ。そしてこの森を共に護ろう」


 己の中の見知らぬ感情に戸惑うように揺れた黒き天狗の眼を見て、女は愛しそうに微笑んだ。


「強くなれ、氷雨。今よりも一層、何者も及ばぬほどに」


 ***


 ≪そぉれ。愚か者が来たぞ≫


 ≪人間の女なんぞにうつつを抜かす、天狗の恥さらしじゃ≫


 ≪どれどれ。あの人間の女を喰ろうてやれば、奴はどんな顔をするかのう?≫


 ≪それは面白い。是非に是非に≫


 木の幹に腰を掛け、その背を預けて翼を休めていた黒の天狗を取り囲むように、悪意の満ちた声が響いた。


 ――嗚呼、五月蝿うるさい。


 己を揶揄やゆする声に、黒の天狗は心中で悪態をつく。そして地に降り立ち、その声の主である天狗が留まっている気配のある木を睨み付けるように見上げた。


 ≪おうおう。あの天狗、一端いっぱしに我等を睨んでおるぞ≫


 ≪相手の力量も見極められんとは。やはり天狗の恥さらしよのう≫


 ≪どれどれ。ちいとばかり痛い目に遭わせるか?≫


 ≪そうじゃなそうじゃな。こういうものはからだに教え込まねばな≫


 ――頭の悪い天狗どもめ。


 黒の天狗は、不愉快さに眼を細める。けれどその瞬間に、この森を好きだと、護ると言った女の姿が脳裏に浮かんだ。


「おい、そこの。少し我等と遊んで行かんか?」


 より鮮明に聞こえた声に意識を目の前に戻せば、五体の天狗が黒の天狗を囲んでいた。


「人間の女なんぞに構うとは。貴様、天狗の名を汚す気か?」


「貴様のような下等な天狗は、大人しく棲み処に篭っておれ!」


「……下等とは、お前たちのことだろう?」


 それは、からだの底から震え上がるような、重く、威圧ある声だった。


「……お前たちが束になろうとも、俺には勝てない」


「…っ、若造が言ってくれる!後悔するでないぞ!」


 五体の天狗が一斉に構える。それでも黒の天狗は、ただ無表情に立っていた。


「……滑稽だな。相手の力量も量れないとは。お前たちのような天狗は、この森に相応しくない」


「ぬかせ!」


 五体の天狗が霊力ちからを合わせ、竜巻に似た風を巻き起こす。それはすぐに鋭さを増し、巨大な刃となって黒の天狗に襲い掛かった。


 ――そしてこの森を共に護ろう。


 黒の天狗の耳に、ここにいないはずの女の声が聞こえた気がした。


「なんと…!」


「そんな馬鹿な!」


 風の刃が掻き消され五体の天狗が驚愕する先に、無傷の黒の天狗が立っていた。


 己を害する全てからその存在を護るかのように広げられた両翼はひどく厳かで、その姿に五体の天狗は畏怖いふを覚え、からだが震えるのを止められなかった。


「その翼…!まさか大天狗に――」


 黒の天狗が虫を避けるように手を払えば、次の瞬間には、黒の天狗を害する存在全てが消え去っていた。


「……共にこの森を護る、か。――そうだな、悪くない」


 そう呟いた黒の天狗の顔はどこか、穏やかなものだった。

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