第三話「二人の契約」

 この森と共に生きたことを誇りに思う。豊かで慈しみ深いこの森を護りたいと強く思う。


 ――そして、叶うなら。あの美しい天狗が儂を忘れぬように願う。


 ***


 それはある朝。黒の天狗が女のもとへ通うことが見慣れた日常となり始めた頃のことだった。


「……いない」


 日課の水汲みのために顔を出すはずの女の姿がなく、それは女の家の中も同じだった。怪訝に思った黒の天狗は眼を閉じ、意識を集中させる。そうしてこの森全体へと意識を広げていき、女の霊力ちからをもとにその気配を辿った。


 辿り着いた先は、天狗の翼であれば容易い――されど人間の足には時間を要するであろう山頂付近。そしてその場所を目指して、黒の天狗は羽ばたいた。


 大きな翼は風を捉え、その速さを増していく。流れる景色の先に山頂が現れ、そこで陽の光を受けて煌めく水面の中に、黒の天狗は人影を捉えた。


 ぱしゃり、水音が跳ねる。


 黒の天狗は上空から暫しその人影を見ていると、またひとつ跳ねた水音に招かれるように、静かに泉のほとりに降り立った。


「―――っ、」


 そして、息を呑んだ。


 澄んだ水の中にその身体を浸した女は、ひどく美しかった。


 滑らかな白い肌に張りつく黒髪がより一層、女の美しさを際立てる。そしてまた、今にも水の中に溶け消えてしまいそうな儚さをも生み出していた。


 ぱしゃり。三度目の水音が合図になったかのように、女の視線が向けられる。


 女は黒の天狗に気づくと少し困ったような笑みを浮かべ、そして水中へと潜った。さながら人魚のように一瞬のうちに女はほとりまで泳ぎ着き、その顔を水の中から覗かせた。


「よくここが分かったな」


 そう笑った女に、先程までの困った顔は見られない。


「……一度お前を認識してしまえば、お前は何処にいても目立つ」


「そうか。私の霊力ちからを辿ってきたのだな」


 ざぶり。女はその細腕に力を入れ、水面から身を乗り出した。惜しげもなく晒された身体から視線を逸らさない黒の天狗に、女は口端を吊り上げ笑う。


「氷雨、儂は水から上がろうとしているのだが?人間の女の身体に興味があるのか?」


「………」


 女の問いに答えることなく、黒の天狗は静かにその背を向けた。


「つまらぬ反応だな。少しは恥じれば可愛いものを」


 女は陸に上がり、近場の木の幹にかけていた手拭いと衣で身なりを整える。


「――そういえば何時の晩だったか…儂を狙いに来たあやかしを退治してくれただろう?」


「………」


「ふふふ。お前が否定しないとき、大抵答えは是であろう」


 くつりくつりと、女は楽しげに笑った。


「歳を重ねるにつれ、儂を狙うあやかしも増えてきた。正直、もう儂一人では手に負えん」


 小さく風が吹いて、ふわりと女の香りが黒の天狗の鼻孔を霞めた。それに振り返れば、すっかり身なりを整えた女が、すぐ後ろで黒の天狗を見上げていた。


「ここでひとつ、儂に手を貸さぬか?」


「……俺にお前の子守りをしろと?」


「ははっ。子守りよりずっと楽なものだと思うがな」


 黒の天狗の厭味も、軽く笑い飛ばされる。


「……では問うが、それは俺に何をもたらす?」


「そうだな。では、儂の霊力ちからはどうだ?お主にはさぞ旨かろう?」


 先程までの軽い笑いが嘘のように、今、目の前で微笑む女はひどく妖艶だった。そして黒の天狗を誘うように、抑えられていたであろう女の霊力ちからが溢れ出した。


「――いいだろう。俺とお前の契約だ」


 強い霊力ちからを持つ者の言葉には、同じく強い言霊ちからが宿る。こうして言霊ちからによって、二人の間に契約が結ばれたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る