第二話「呼ばれた名」
それは、生まれて初めて接した存在だった。己への利や価値を求めない、なんとも生温く、理解し難い存在。
――ただそれは、不思議と不快ではないことだけは確かだった。
***
「――良い朝だな」
翌朝。古びた小屋から出て来た女を出迎えたのは、近くの木に背を預けて佇む黒の天狗の姿だった。
「どうした、儂に何か用か?」
「………」
「ふむ。人間が珍しく、観察にでも来たか。存外天狗というのも暇なようだ」
返ってこない声に気を悪くする風もなく、女は愉快そうに笑う。
「否定せぬか。天狗も人間とそう変わらぬようだ。――さて、儂は今から水を汲みに行くのだが、お主も来るか?」
「………」
「沈黙は肯定と受け取るぞ。さあ、行こう」
桶を持って歩き出した女に少し遅れて、黒の天狗もその後を追った。
「この森の奥にある山を少し登った先に、川があるのは知っているか?」
「………」
「そこへ毎朝、水を汲みに行くのだ」
「……お前は、随分と森を歩き慣れている」
安定した足取りで森の中を進む女の背中。それをしばらく見つめていた黒の天狗の声に、女はその歩みを止めて振り返った。
「ほう、歩き方で分かるのか」
感心したような声音で笑い、女は面白そうに目を細めた。
「もう十年くらいだろうか?五つのときから、この森に住んでいる」
「………」
「どうだ、長かろう?」
にぃと自慢げに口端を吊り上げて笑って見せ、女は再び歩き出す。そして黒の天狗に背を向けたまま、ひとつ問いかけた。
「――山頂に、川の水源となる立派な泉があるのは知っているか?」
「……ああ」
「では、人間がその泉をなんと呼んでいるかは?」
「……興味がない」
「ははっ。流石にそこまでは知らぬということか」
よく気にかけていなければ分からないほど、問いの中に僅かに滲んでいた女の緊張。それが笑い声と一緒に溶けた次の瞬間だった。
「……だが一度、人間が泉へ行くのを見かけたことがある」
黒の天狗の返答に、微かに女の体が強張った。
「……そうか」
「………」
「ああ、着いたぞ」
女の様子がどこか変わった気がした黒の天狗が、そのどこかを見定めようしたときにはもう、女は川の傍まで近寄って水を汲み始めていた。
「段々と水が冷たくなってきたな」
その女の声に、黒の天狗が感じた違和感は少しもなかった。そして黒の天狗はそのまま、女が水汲みを終えるのを黙って見ていた。
「よし。これだけあれば今日の分は十分だろう」
振り返った女に合わせて、持ち上げられた桶の中の水が跳ねる。水を汲むために上げられた袖から覗く女の細腕が、黒の天狗には妙に頼りなさげに見えた。
「……重くはないのか?」
「もちろん重いな。だが、今となってはすっかり慣れてしまった。だからこう見えても力はあるぞ?」
にぃと自慢げに口端を吊り上げた、大人びた女の言動の中では新鮮な笑い方だった。
「……ふん。人間の力など、たかが知れている」
黒の天狗は鼻で笑って、さり気なく女から視線を遠ざけた。しかし、その心は揺れ動いていた。気付けば人間の女のペースに呑まれている己に。興味がなかったはずの人間の女如きに構う己にも、また。
「桶を持ち帰ったら、次は山菜採りに出掛けよう」
女は来た道を戻り始める。ちゃぽん。桶の水がまた、小さく跳ねた。そして遅れて着いてくるはずの足音が暫くしても聞こえて来ず、女は黒の天狗へと振り返った。
「――どうした、氷雨。行かぬのか?」
視線が、絡み合う。初めて呼ばれた己の名と女の笑みに、黒の天狗は眩しそうにその眼を細めた。
女に誘われるままに、その後を追う黒の天狗。そうして女の家に二度戻って来た頃には、空がすっかり
「そろそろ夕餉の支度をする頃だな。どうだ、氷雨。採れた山菜を料理しようと思うのだが、一緒に食べぬか?」
「………」
「よし、食べて行け。一日付き合ってくれた礼だ。夕餉ができるまで適当に待っていてくれ」
女はそう笑って、その背から山菜の入った籠を下ろしながら小屋の中へと入っていった。
黒の天狗がその後ろ姿をしばらく見つめ、何かの気配を察して視線を天へと移した瞬間、ばさりと大きな影が頭上を過ぎった。
「……
キイィィィと奇妙な高い鳴き声を発し、その大きな影――巨大な怪鳥は黒の天狗の前に降り立った。その紅い眼に、黒の狗の姿が映り込む。
「……お前の
黒の天狗を威嚇するように、一際甲高い鳴き声を怪鳥が発した。その音が耳障りだといわんばかりに顔を顰め、黒の天狗の手が素早く
「……あの女は、喰わせない」
――何故、女を護ったのか。その理由を自覚せぬまま、黒の天狗は再び女に呼ばれる時を待っていた。
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