古語り(いにしえがたり)

秋乃 よなが

第一話「満月の巡り合わせ」

 もし、この出逢いに意味があるのならば。それは、一人きりで進まねばならぬ儂への、最後の恩恵だったのかもしれない。そしてそれはきっと、儂に覚悟を貫き通させるためのものだったに違いない。


 ――世界を護るという、儂にしかできぬ覚悟を。


 ***


 満月の夜。昼間の熱を冷ますように、涼やかな一陣の風が青く茂った木々の合間を吹き抜ける。その先で月の光を受けた白金色の水面が、風と合わせて踊るように揺れた。


 そんな水面――この森全てを潤さんとするほどの豊かな泉の上に、その影は立っていた。


 また、風が一陣、吹き抜ける。影は黒曜石のごとく煌めきを帯びた眼を、微かに細めた。


「――感じる」


 それは身体の奥から広がるような、不思議な響きを伴った声だった。


 次の瞬間、影の背から一対の闇色の翼が広がる。風が運ぶ匂い。影はそれを嗅ぎ取ると、その翼を羽ばたかせ空を舞った。


 影は黒の出で立ちだった。漆黒の髪、黒曜の眼、闇夜の翼。その身に纏う衣さえも、黒に近い濃藍の色をしている。


 そして、その姿は美しかった。人間ひとにはない、美しさ。人間ひとにはない、気迫。


 それは、まさに凄艶。ぞっとするような美しさが影にはあった。


 影は高く高く舞い上がる。そして全てが夜の帳に隠された森の中で、その女は一人、迫る影の気配を感じながら天を仰いで月の光を浴びていた。


 女もまた、美しかった。夕闇色の長髪、黒曜の瞳、白い肌。その身に纏う白と唐紅の衣。それは、まさに高潔。気高く穢れなき気迫が女にはあった。


「――このような夜更けに何か用か?」


 森の静寂を破ったのは、どこか先の泉を思わせる、透き通った女の声だった。


「……人間の女、か」


 音もなく、その声の主――影は女の背から少し離れた地面へと降り立ち、闇夜の翼を閉じた。


「どうも満月の夜は気が昂ってしまうな。どうやら儂はお主を誘い出してしまったようだ」


 女が小さく笑う。


「…その霊力ちから。…お前、何者だ?」


 女は影の問いに答えることなく、ただその口元に笑みを称えていた。


「お主、名はなんという?」


「………」


「…ああ、まず己から名乗るのが礼儀だったな。儂は常盤ときわだ」


「……氷雨ひさめ


「――そう。ヒサメ、か」


 答えるか否かの思案の末に返された影の名を、女は満足気に舌の上で転がす。


「天狗に逢ったのは初めてだ。やはり霊力ちからが強いのだな」


「……何故、俺が天狗だと?」


「この森には、大きな翼を持った天狗が住まうと聞いていた」


「………」


 その言葉に偽りがないか、またその存在を見定めるかのように、黒の天狗は女を見据えていた。


「……それだけの霊力を持っている人間はそういない」


「ああ、そうだろうな」


「……何者だ。何故、ここにいる?」


 先刻と同じ問い。はぐらかすことなど許さぬといわんばかりの鋭い視線が、真っ直ぐに女を射抜いた。


「――儂はこの森に住んでいる者……そうとしか言えぬな」


 黒の天狗は、ちょうど女を挟んで反対側にある小さく灯りを零している小屋を見遣った。まるで木々の間に隠れるように建つその古びた小屋は随分と森に馴染んでおり、以前からそこに在ることが察せられた。


「……ここは人間が住めるような場所ではないはずだ」


「お主の知っての通り、儂には霊力ちからがある。それが、儂がここにいる理由だ」


「………」


 女からの返答は、到底黒の天狗が納得するものではなかった。それでも黒の天狗がそれ以上問い詰めようとしなかったのは、己に向けられた女の笑みがやけに作り物めいたように見えて、これ以上の女の身の上に踏み込ませないという強い意思を感じたせいだった。


 黒の天狗は女と交じり合っていた視線をふと逸らすと、闇夜に溶け込むその翼を広げた。そうしてそのまま舞い上がり、それ以上は言葉を交わすことなく飛び去って行った。


「――これは一体、どういう巡り合わせか…」


 再び一人きりになった月の光の下で、女はそっと息を吐いた。


 天狗は滅多に姿を現さないという。女はこの森に住んで長いものの、一生その姿を見ることはないだろうと思っていた。それにも関わらず、こうして出逢ったことには何か意味があるのではないか?女はそう考えている己に気づき、思わず苦笑を零す。


「例え意味があったとしても、何も変わりはせぬ」


 家に戻ろうと踵を返した女の背を、ただ静かに月の光だけが照らしていた。

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