少女 3

 暖かい気持ちになった豊を一瞬で凍りつかせるのに、その光景は十分だった。


 愛しい翔のすぐ後ろ。正確には大浴場を収める大きなガラスを挟んですぐ後ろに血にまみれたハウモノがいるのだ。





 ドチャッ。





 ハウモノは大ガラスに思いきりぶつかる。


 その血の染み込んだビチャビチャの浴衣ごとぶつかるので、ガラスに付着した血がタラタラとガラス面を滴り落ちる。


 ふたりが驚き固まっているとハウモノはもう一度ガラスに頭から突進し、今度は大ガラスに大きなヒビを入れた。


 「くるぞ!」


 再び助走を取ったハウモノを見た豊は翔に喝を入れるように声を張り上げると、翔の手を握り一目散に出口に向かう。





 走り始めてすぐに大ガラスがバリバリと音を立てて崩れた。


 ハウモノは血の浴衣を引き摺りながらふたりを追う。


 ふたりは女湯の暖簾をくぐり出ると、佐々木の屋敷の方に伸びる廊下に向かい全力で走る。


 ハウモノは速い。


 図体が人間並のゴキブリが力強い馬のように手足に力を込めながら追ってくるのだ。


 豊がチラリと後ろを見ると、大ガラスに頭突きしたからか首がぽっきりと折れ曲がったハウモノが目だけでふたりを捉え、瞳孔を開きながらふたりを追う。


 ふたりの倍はあるのではないかというスピードで這い寄るそれは手を伸ばし、翔の足に手を伸ばす。


 もう危ないというところで豊は翔の腕をグイと引いて階段へと引き連れた。


 ハウモノの指は翔の足を掠めたが、階段へと逃れたふたりの急な方向転換に再び距離が開く。


 豊と翔は懸命に階段を登る。


 血で滑り、階段に方向に出遅れたハウモノもすぐさま距離を詰めようと、ドタバタとぎこちなく階段を上る。





 豊と翔が階段を登りきるとすぐ右に佐々木の屋敷は繋がる踊り場が見えた。


 翔はそちらへ進もうとするが、豊は直線だと逃げ切れないと判断して正面の宴会場の方へ翔を引っ張る。


 ハウモノが再びふたりを捉える。


 豊と翔は障子の襖を手早く開けると靴のまま宴会場に上がり込み、また手早く襖を閉める。


 豊と翔は宴会場の襖を開け閉めしてハウモノとの距離を稼ぐと、一か八か、座布団がしまってある襖に入り、アガる息を殺してハウモノがこの場から去るのを待つ。


 やたらめったらに襖を壊してふたりを探すハウモノが畳をズルズルと這い回る音が大きくなったり小さくなったりする度に肝を冷やし、ふたりはこの場所がバレないようにと身体をギュッと小さくして祈る。





 ハウモノは去ったようだ。


 ひたひたと歩く音は聞こえなくなり、暫くの間、静寂に包まれる。


 豊はおそるおそる押入れの襖をゆっくり開けて周りを見回す。


 辺りの襖は殆ど薙ぎ払われ、ハウモノがズルズルと這い回った跡が血痕として畳に記されている。しかし、ハウモノは既にこの場から去ったようで豊はホッとして押入れの壁にもたれかかった。


 これからまた追いかけられると思うと、この押し入れに身を潜めていたい気持ちが豊にはある。


「ハウモノはすごく速いけど、すぐには止まれないし、ちょっとお馬鹿さんなのかも」


 翔は豊ほどには緊張感がないようで、にっこりと笑って豊の顔を見た。


 翔はあまりに豊とハウモノに対する認識が違う様で、豊はそんな甘い考えはダメだと指摘を入れようとする。


「父さん、ありがとう。かっこよかったよ」


 豊が指摘する前に翔はそう言った。


 豊は翔の言葉に少し照れて口角が上がったが、それを隠すように腕で口元を拭う。


「あぁ、こんなの何ともないわ。翔が無事でよかった」


 余裕はないがいつも通り見栄を張る豊を見て翔は嬉しくなる。


「もう少し休憩したら屋敷に向かおう」


「うん。わかった」


 翔は積み上げられた座布団にもたれかかる。すると、背中に微かな違和感を感じた。


 翔は振り返ると座布団の隙間に手を入れ、それを取り出す。


「父さん。何これ?」


 翔はその重たいU字型の金属を豊に渡す。


「これは蹄鉄じゃないか?」


「蹄鉄?」


「あぁ、ウマの蹄に付ける金具だ。それにしても重いな」


 豊は蹄鉄を持ったことは無かったが、そのズッシリとくる重みは鉄のそれとは違うということが容易に分かった。


「よし、この蹄鉄は持って行こう。」


「どうして?」


「蹄鉄はお守りとしての効果もあるんだ。確か、競馬場のお土産コーナーで見たことがある」


 豊はそのうち売って金にしようというくらいにしか考えていなかったが、咄嗟に出てきた出鱈目を流暢に話してポケットに引っ掛ける。


「ふーん。」


 翔は豊の意図を見透かしていたが、特に言及せずに流すことにした。

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